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「ほぼ日刊イトイ新聞の本」が出るよ!

【以前のほぼ日 その14】
「こども」を中心に、2000年5月より。


今日は、2000年5月の「今日のダーリン」から
「こども」をテーマにピックアップしようと思います。
こどもを鏡にしながら、生き直したり、
考えるヒントを得たり、ということが、
ほぼ日紙上では、とてもおおいように感じながらの
今回の紹介になるんです。読んでみてね〜。

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2000-05-05

今日は子供の日だ。
子供の日というと、
暖かい家庭の仲のよい両親が、子供に愛情を注ぐような
イメージを思い浮かべたりしがちだ。
そういうものだ。画はシンプルなほうがわかりやすい。
しかし、ハワイと言えばフラダンスみたいな記号性が、
いちばん伝えやすいものだし、それはそれでウソじゃない。
だけど、子供ってのもなかなか不安定な立場にあってさ。
自立するだけの力がないという意味では、
女性の立場以上に自由でないものなんだよ。
保護者という人々や、大人たちがどんなに理不尽でも、
逆らったら生きていけないんだからね。
暖かい家、仲のよい両親なんて、
そんなにありふれたものでもないんだよな。
平凡な家庭とか、いくらでもありそうだけれど、実際には
それは首位打者の打率くらいの確率で存在する
格別なケースだと思ったほうがいいのだと、ぼくは思う。
愛のもとに生まれたのでない子供もいる。
愛されること少なく成長していく子供もいる。
冷え切った父と母の間で大きくなっていく子供もいる。
●「過ちは素晴らしい子を残した。」
これは、さっき見終わったばかりのビデオ、
『サイモン・バーチ』のなかにあった台詞だ。
『ガープの世界』のジョン・アービング原作の映画で、
2年くらい前の作品だ。例によって、また泣いたよ。
いま子供である人と、昔子供だった人と、両方のために、
今日が、よい子供の日でありますように。
17歳という子供でもあり大人でもあるような人たちは、
実は子供なんだよなぁ、と思いつつ。


2000-05-18

家を出てすぐ、路地から少し広い道に
右折で曲がる角がある。
4歳か5歳くらいの女の子が、
おばぁちゃんと手をつないで
スキップしているのを見た。
かわいかったなぁ。
スキップ、いいねぇ。
幼稚園くらいのとき、教わるんだよね。
なんだろ、あの、スキップってのを習う目的ってのは。
いやいや、文句言ってるんじゃなくて、
いいこと教えるもんだなぁと思ってさ。
ブルースのリズムでもあるんだよね、スキップって。
なんで教えるんだろう?
他のリズムは教えないのに、スキップは教えるよなぁ。
イエーイ、「ほぼ日」読者のみんなーっ!
スキップしてる?
してない?
いつ頃からしてない?
しろよ、スキップ。
ぼかぁ、いまから『スキップ友の会』つくろう。
うれしいにつけ、かなしいにつけ、スキップする会さ。
もし、これを読んで、ひさしぶりにスキップした人、
メールください。
何通の報告があったか、また、ここで報告しますから。
人の目を盗んで「隠れスキップ」、
深夜にひとりで「孤独のスキップ」、
待ち合わせした恋人に「お待たせスキップ」、
誘い合わせて「通勤スキップ」。いいぞーっ!


2000-05-21

昨日は伊達公子さんと話す機会があった。
世界というものに触れた経験のある人の言葉は、
やっぱり輝きが感じられるものだなぁ。
その5月20日は、現ダイエーホークス監督
王貞治さんの60回目の誕生日だったらしい。
何ヶ月か前、
王さんの娘さんの理恵さんの出演したラジオ番組を、
偶然聴いていたんですけどね。
それがまた、よかったんですよ。
去年のホークス優勝の時、娘さんは、
その現場にいたんですって。
祝福の人混みにもまれながら、
優勝監督である王さんに近づいた娘の理恵さんは、
「どんな言葉を交わしたんですか?」。
と、司会者は質問した。
ぼくもそのときの父娘の間にやりとりされた言葉を、
知りたいと思いながら、クルマを運転していたわけよ。
理恵さんのこたえは、以下のようなものだった。
「言葉は、でなかったんです。父も私も。
すごくたくさんの人が父の周りを囲んでましたし。
ただ、目を合わせて、それだけでしたね」
それがとてもうれしかったと、理恵さんは語った。
うわぁっ、と思ったなぁ。
なんだか、なにもかもぜんぶが入った時間が、
王さん父娘の間にあったんだろうなぁ。


2000-05-24

週刊誌とかを見なくなって久しい。
読めばそれなりにおもしろいんだろうけれど、
あれってクセのもんなんだって、読まなくなってわかった。
・・・同じようなことを、「ほぼ日」が
言われないようにしないといけないんだよな。
インターネットの記事でも、雑誌でも、
文字量の50%くらいが、他人のやったことへの
批評やら感想なんだよなぁ。
ま、それはいいほうの言い方で、
「この人この事の何がダメか?」を書いたものが
やたらに多いってことに気がつく。
たしかに、そう言えばそうなんだろうとも思うけれど、
ほんとは、「自分は何がしたいのか」とか、
「これのどのへんがいいのか」についてのほうが、
いまのぼくの知りたいことなんだよなぁ。
ぼくは、いつでも何かを書くときに恐れていることがある。
『じゃぁ、おまえやってみろよ!』ということばだ。
だから、人に取材するときには、もう、
無条件に近い尊敬から視点を定めていく。
そのうちに、自分がマネできるようなことを、
教えてもらおうと、質問をはじめたり、
考え方をまとめる手伝いをやりはじめる。
おそらく、これはぼくのやり方の基本姿勢だと思う。
『おまえなら、どうする?』と言われて、
曲がりなりにも説得力のある答えが無いときには、
「よくわからないんで」と黙っているしかない。
こういう方法が正しいかどうかは知らないけれど、
ぼくには、それしかできないので、そうやっていく。
読者からのメールにも、そういうのが多いので、
これはこれで、気が合ってるんだろうと思っている。


2000-05-26

いま17歳やってる子たちはやりにくいだろうなぁ。
17歳の少年の犯罪が続いたということで、
周囲の17歳はどうなっているんだろうと、
大人たちが気にかけているだろうからだ。
こういう時に、目を向けられた側がつらいのは、
「いいこに見えるけど、ほんとうはどうなんだろう?」
という具合に、心のなかを覗きこむ人々が多くなることだ。
「ああ見えても、こうだ」という疑いを持って
人間を見ると、見つめる目がある種の期待を持ってしまう。
カブトムシの足をちぎっているのを見た、なんて事実が、
とんでもない恐ろしい予兆のように論議のタネになる。
おおぜいの誰かに観察されているということは、
すごいストレスになるのだ。
そういう目で見たら、なんでも怪しく見えてくる。
17歳の「うちの子」やら「近所の子」やらが、
「心配」という名の好奇の目にさらされているのは、
けっこう気の毒なことである。
だいたいさー、人間の心の奥を覗くってのは、
ほんとは失礼なことなんだよねー。
笑っちゃうしかないけれど、ぼくなんかでさえ、
自分の心のなかを推測で書かれることがよくあるよ。
『あわよくば一攫千金をというイトイの思惑も外れ』
なんて、埋蔵金がらみでごく普通に書かれててもさ、
それって、書いた人の想像でしょ?ったくなぁ・・・。
いまの日本の17歳は、きっと
『鬱屈した不安と愛情欠乏』あたりを疑われて、
余計な同情をされたり気味悪がられたりしてるんだろうね。
17歳の読者の人、うちに何人くらいいるんだろう?


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(明日に、つづきます)

2001-04-20-FRI

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