- ──
- この地球上に存在する
さまざまな文化や儀礼や習俗、生物、
科学技術などについて、
「映像」で「百科事典」をつくろう、
という空恐ろしい試みが、
「ECフィルム」だということですけれど。 - 下中
- ええ。
- ──
- 元々、どういった由来のものなのでしょう。
- 川瀬
- 1950年代から、
ドイツの国立科学映画研究所が進めていた
プロジェクトで、正式名称は
エンサイクロペディア・シネマトグラフィカ、
略して「EC」です。 - ──
- 文字どおりの「映像百科事典」ですね。
- 川瀬
- ヒトや動物の行動の比較研究という目的のもと、
撮影者の存在をできるだけ明示せず、
徹底した対象の観察にフォーカスした
アプローチが貫かれています。
- ──
- ざっくり言いますと、
主婦のパン焼きや、木靴職人の仕事場や、
南米の民族のダンスや、
アフリカの病気治療の儀式やらを、
ほぼ「定点」のアングルから、
延々と、淡々と撮っている映像ですね。 - 丹羽
- パンを焼く、という映像だけでも
世界40地域の「パン焼き映像」があります。
- ──
- 40! はー‥‥。
- 川瀬
- ECフィルムは、比較文化研究や教育現場で
活用されるとともに、
文化人類学における
民族誌映画をはじめとする学術映像の様式に、
極めて大きな影響を与えてきました。
しかしながら近年は、
「フィルム」という前時代的な保存形式や、
「客観的な観察」に特化した
禁欲的な映像様式が障壁となって、
本国ドイツはもとより、
私の研究分野である映像人類学においても
注目されることはありませんでした。 - ──
- なるほど。
- 川瀬
- それどころか、過去の遺物として
位置づけられてしまっています。 - ──
- ほとんど、忘れ去られていた?
- 川瀬
- そう言っても、よいと思います。
- ──
- つまり「眠れる鉱脈」であった、と。
そんな貴重な映像資料を掘り起こし、
少しずつデータ化し、
上映会を開いてらっしゃるのが、みなさん。 - 川瀬
- そう、そんなさみしい状況にあったECですが、
この21世紀の日本で、
「科学」の枠組みから解き放たれ、
時空を超えて、
新たな意味と価値を与えられている‥‥。
それが、ここにいる
下中菜穂さんたちのチームが
東中野のポレポレ坐で3年前から開催している
ECの上映会です。 - ──
- 科学とか学術的な意味や価値の高さは
ひとまず置いといて、
「みんなで集まって、ワイワイしゃべりながら
めずらしい動画を楽しんじゃおう」
という雰囲気の会ですよね。
専門家から離れた「生真面目な映像」を、
ぼくら一般人が、おもしろがってるみたいな。
- 川瀬
- もともとECというのは
ドイツ国立科学映画研究所の所長だった
ゴッタード・ウォルフ氏が
1952年に提唱して設立された、
科学映像のアーカイブ事業でありました。 - ──
- なるほど。ウォルフ所長。
- 川瀬
- 民族学をはじめ、
動物学、植物学、微生物学を含む生物学、
さらには科学技術など、
多様なテーマを体系的に網羅しており、
おっしゃるとおり、
さまざまな専門家のための研究や教育に
活用されてきました。 - ──
- それを、何の知識もないぼくらが見ると、
なぜだか「妙におもしろい」と。 - 下中
- そうなんです。
ぜんぶがぜんぶおもしろいわけもなく、
淡々としすぎていて、
眠くなっちゃう映像もあります(笑)。 - ──
- そうやって正直に言えてしまえるところも、
また、いいなと思います。
ちなみに、
プロジェクトの名前にも入っていますが、
「百科事典的」と言うのは、
どういう部分を指して言ってるんですか? - 川瀬
- ECでは、たとえば
「チンパンジーの一生」をテーマにした長編を
制作するのではなく、
食べる・寝る・交配する、などの行動様式別に
短編映像を制作していくのです。
そうすることによって、
個別のチンパンジー間における、
あるいは
異なる動物間における行動様式の「比較」を、
可能にさせているのです。 - ──
- そこをもって「百科事典的」である、と。
- 川瀬
- 禁欲的なまでの「客観主義」も特徴です。
たとえば民族学的な映像を撮るにしても、
芸術的な表現や過度の演出を避け、
被写体への干渉を隠蔽する撮影方法が
貫かれています。
時系列の改変や過度な解説、ナレーション、
BGMなども、ほとんど控えられています。
- ──
- いくつか拝見しましたけど、
ほとんどの映像が、
最後まで何が起こるというわけでもなく、
オチもないままに終わっています。 - 川瀬
- そうですね。徹底しています。
- ──
- 入手したのは、いつごろなんですか?
- 下中
- 出版社・平凡社の2代目社長である
下中邦彦が設立した公益法人、
下中記念財団が購入したのが1970年です。
当時のお金で、
たしか4000万円ほどだったらしいです。 - ──
- よ、4000万円!?
しかも、50年近く前の「4000万円」て。 - 下中
- 今のお金で、数億円‥‥でしょうか。
- ──
- でもそんな、今の価値で数億円もする
ストイックな映像集が、
当時、どれくらい売れたんでしょうか。 - 下中
- アジアでフルセットを持っているのは
日本だけと聞いています。
おそらく「世界で数セット」だと思います。 - 川瀬
- たしか以前に調べたことがあったのですが‥‥
ああ、ありました、これです。
「ドイツの本部以外では、
オーストリア・オランダ・アメリカ・日本に
完全なECフィルムが存在する」 - ──
- ようするに、
ECフィルムがすべてそろっているのは、
その5カ国のみ? - 川瀬
- そういうことになりますね。
ちなみに、
フランス・イギリス・ポルトガル・スイス・
カナダ・トルコには、
部分的なECフィルムが存在するそうです。 - ──
- ECというのは「完結」してるんですか?
- 下中
- この地球上に存在する
さまざまな文化や儀礼や習俗などについて
映像で百科事典をつくる、
その意味では、
おそらく「終わり」なんてありませんから、
完結するようなものでもないというか。
- ──
- そうか。
- 川瀬
- 歴史的には、1990年代に
編集委員会が開催されなくなってしまい、
さらには、2010年前後に
母胎であったドイツの国立科学映画研究所が
閉鎖になっています。 - 下中
- 編集委員会の開催が途絶えてしまったのは、
ベルリンの壁の崩壊が原因だと、
事情を知る人から、聞いたことがあります。
ドイツの国内社会が激的に変化して、
それまで割かれていた
EC向けの予算がなくなってしまったって。 - ──
- ちなみに下中記念財団が持ってらっしゃる
フルセットって
どれくらいの「荷姿」になるんですか?
たとえば、フィルムで何本とか‥‥。 - 下中
- フィルムの本数は、ちょっとわかりません。
映像のタイトル数も
「3000以上」としか、把握していません。
フィルムは、
幅の広い3段式のスチール製シェルフ、
7台から8台くらいに保管されています。 - ──
- はああ。
- 下中
- とにかく内容を確認できてないフィルムが
膨大な量、ありますので‥‥。 - ──
- でも、平凡社さん、下中記念財団さんは
どうして、
フィルムを買おうと思ったんでしょうね?
- 下中
- それは、やっぱり、
平凡社って「百科事典の会社」ですから。 - ──
- 「映像の百科事典ならば、買わねば」と。
- 下中
- 当時の平凡社社長だった下中邦彦が、
これからは映像の時代だからということで
購入したそうです。
時代の先を読む、
大胆な決断をする人でしたから。 - ──
- なるほど。
- 下中
- 当時は上映会を頻繁にやっていたらしくて、
平凡社の一室で
定期的に上映会を開いていたそうです。
鳥の映像を見ながら
鳥のエキスパートが解説をしたりとか。 - ──
- 購入当時は、しっかり活用されていた。
- 下中
- 以前は、学校や図書館でも
16ミリフィルムの視聴覚資料を持っていて、
フィルムの上映は
ごくごくふつうに行われていたんです。
個人が、映像を、
いつでもどこでも見られる現代とは違って、
こういったものを見るには
みんなで上映会をするしかなかったんです。 - 丹羽
- でも、はじめっから、
上映会をしようと思って買ったのかな? - 下中
- んー‥‥いや、どうだろう。
下中邦彦は、紙の百科事典の次に、
映像の百科事典を
自分でもつくってやろうと思って、
買ったのかもしれません。
<つづきます>
2016-10-28-FRI