CHILD
これでも教育の話?
どんな子供に育ってほしいかを、
ざっくばらんに。

第6回 「超えることへの恐怖」は要らない。

糸井 今だと特に、
おとなの考えかたひとつで
貧乏なのかそうじゃないかっていうのは、
変わると思うんです。

月収500万円ぐらいの人が、
やたらと「食うに困る」という言葉を使うのが
ぼくには、かなり不愉快なんですよ。
「おまんまが」とか「食うに困る」とか・・・。
食えてるじゃねえかよ、と思うわけです。

生きるとか食うとかいう言葉を、
ずいぶん雑に使っているなあ、と。
たとえば、食うに困るという話で言うと
それこそ「羅生門」の舞台になっているような、
おにぎりの重さで人は死ぬみたいな状況って、
きっと、あったはずですから。

そういう意味では
簡単に「食う」とかいう言葉を使って
いろいろな大切なものを
「しょうがないなあ、食うためには・・・」
と捨てようとする下品さには、腹が立ちますね。

ちょうど、時期が時期ですから
ついついアメリカの話題に結びつけちゃいますが、
いまだと「さぁ大変だ」とか思っている
負のポテンシャルが、集まってきていますよね?
福武 ええ。
糸井 戦争だというと、
すぐに撃ちあいだとか飯が食えなくなるとか、
全員が不自由なことになるみたいな発想で
捉えちゃう人がいるけれども、
実際に「食うに困る」状態に至るまでには、
ずいぶんグラデーションがあるはずだと、
ぼくは思うんです。

「困る困る」と言っているだけで
「どれくらい困る」だとか、
その逆に「どれぐらいうれしいんだ」みたいな
メモリを作れないことに関しては、
「豊かさって何?」みたいなことについて、
今まで学んでこなかったツケが
出ているんじゃないだろうかと考えています。

「いちばんうれしかった」から
「いちばん悲しかった」までの
触れ幅みたいなものがないままで、
「悲しい」なら「悲しい」で
一色になっちゃう傾向を感じますね。
福武 うん。
体感とか体験というのが
ないままだからかもしれない。
実感がない。

よく社内でも討議をしているんですけど、
終身雇用と年功序列で固められた
大企業に入るための
「しあわせの特急券」みたいなものを
手に入れようとして、
いままでの教育体制があったわけでしょう?

それがバラバラバラッと崩れているという中で、
「どうしよう、どうしよう」
と言っているのが、今の状態なのでしょう。
きっと、基準を、自分ではなくて
別のところに置いてしまっているんでしょうね。
糸井 いわゆる「依存」というやつですよね。

ぼくはアメリカのディズニーの研修に行った時に、
「自己依存」という言葉が英語で話されたのを聞いて
依存について改めて考えたんですけど、
「自己依存」という言葉って、おもしろいですよね。

依存がなくて生きていけるはずがないので、
「我を頼む」というか。
福武 わかります。
主体的に生きるということに
似たことなんでしょうね。

自分で考えて、自分で判断して、
自分で行動をするみたいなものが、
いままでの「教育」には、なかったかもしれない。
糸井 先生が必ず答えを知っているという前提での
教育が、ぼくは怪しいなと思ってて。
福武 それはそうでしょうね。
糸井 大学は違うといっても、大学でも
先生がいちばんいい解を知っているという状態で、
そこに近づいた者が偉いんですね。
そうすると、先生の出す質問というのを超えられずに
22歳まで過ごしてしまう・・・。

誰も超えたことがないという状態で
22歳まで育ってしまったら、そのあと
「超えてしまうこと」への恐怖を感じるんじゃないか。

「超える」ことをこわがらない生き方って、
アートとスポーツぐらいなんじゃないかなあ、と
前々から、思っていたことがあるんです。

スポーツマンは、先生よりも速いんですね。
どんなに怒られても、走ってみれば
おまえよりも速いよ、というところがありますよね。
アートでも、「先生よりも俺のほうがいいぜ」と
自信を持って言えるように仕向けるのが、
教育だったりするわけですよね。
たぶん、ヒントはそこにあるような気がします。
福武 アートとスポーツね。
それは、おもしろいなぁ。
糸井 「先生に言われないことを
 やってしまったら、失敗した」
「言われないことを
 やってしまったら、案外うまくいった」
と運動選手とゆっくりしゃべると、
ものすごくおもしろいんです。

しかも、コーチのほうも偉くて、
「選手の補佐」の役割をすると決めていますよね。
知識や知恵はたくさんあるのに、
「俺が主役じゃない」と思っている先生と出会える。
そのすばらしさというのは、ぼくも40歳を過ぎてから、
スポーツのコーチ連中とたくさん会うようになって、
「これが教育だよなあ」と感じるようになったんです。
福武 すごくわかる。
「ティーチャーからコーチャーへ」
という言葉があるでしょう。

コーチというのは、
子どもであれば子どもの主体性を
ベースにしながら、ずっと見守る存在ですよね。
だけど決して放任ではない。
好きなことを何でもやっていいわけじゃない。
きちんと方向に沿うように
ずっと見守る存在なんでしょうね。
糸井 今までの勉強といわれた勉強と
コーチと選手の関係とは、余りにも逆じゃないですか。
「カッコの中に答えを入れろ」
というスタイルが、いわゆる勉強の典型ですよね。
それじゃ、ベルトコンベアの仕事にそっくりで。
それだけで訓練されちゃうと、永遠に楽しくない。
(つづきます)

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2001-12-04-TUE

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