福武 |
進研ゼミがぐっと伸びた中学講座の時に
同じような問題意識を持っていて、
あのときの伸びたベースは、要するに
「勉強を、スポーツやゲームのように
楽しいものにしたい」という願いだったんです。
勉強をおもしろくなくしたのは大人だと思った。
それが、子どもにすごく受け入れられたんです。 |
糸井 |
子どもに直に受け入れられたわけですね。 |
福武 |
要するに、勉強というのは、
スポーツやゲームとは違うジャンルのものだと
子どもは思っているわけでしょう?
じゃあ、同じレベルにしたらいいじゃないか。
それほどおもしろくて、
楽しくて、わくわくしてみたら・・・。
いまはまたもう少しあたらしく
主体的にと言うか、みずから学ぶ意欲みたいなものを
再構築せにゃいかんですよね。
いい学校に入って、いい企業に入る、
それが幸せだと思い込んでいたわけですが、
その学ぶ目的みたいなものが喪失して、
学ぶ目的が喪失すると、
学ぶ意欲は当然なくなりますよね? |
糸井 |
勉強のできる子が
なぜ勉強するかというと、
運動会でかけっこの得意な子が
かけっこが好きなのと同じで、
「勝てる」からだと思うんですよ。
要するに運動会と同じようなことが
ずうっと毎日6時間とかくりかえされていて・・・。
そうすると勉強の得意じゃない子というのは、
ほんとに、チャンスがなくなるんですね。
教育論かどうかはわからないんですけど、
ぼくが昔、個人的に、
ふと気づいたことがあるんです。
東京でいま仕事している人間って
みんなそうですけど、
地方にいるときは勉強ができるわけですね。
ぼくも小学校時代はできていたんですが、
そのときから「怪しいな?」と思っていました。
小学校で6組あったんですけど、
クラスで1番だったとしても、
学校で最悪だと6番になりますよね?
・・・市内の小学校の数をかけざんしてみると、
その時点で30番とか100番になっちゃう。
更に県があって、都道府県ぜんぶになると、
「クラスでいちばんって、何なんだよ」
と、ぼくは小学校の時に、思っていたんです。 |
福武 |
なるほど。 |
糸井 |
それで、ちょっとこわくなりました。
日本というぜんぶのレベルの中で
こんな戦いをずっとやっていくとすると、
最悪だなあ、と思ったから。
勉強をスポーツみたいにやるとか、
得意だからやるっていう姿勢が、
もう、その時点でイヤになりました。
得意っつったって、たまたま
親が本を読ませていたという程度なんです。
そんなところを得意だと感じて
いちばん同士が競走をしているのは、見苦しい。
そうじゃないものということで
考えていた時に、いちばん
「これ、いいなぁ」と思ったのは、
ともだちどうしで遊ぶ時に
「あいつ、呼ぼうぜ」
と言われる存在、というやつなんです。
どんな集まりでも、
「あれ、今日、あいついないの?」
と言われるやつがいるんですよ。
それは、俺、やりたいと思いました。
運動だとかある技能が得意不得意じゃなくて、
どっかに行きたい時に一緒にいたいやつ。
そういう存在に、みんながなると、
楽しいだろうなあと思っています。 |
福武 |
へえー。
いつごろ思いましたか? |
糸井 |
それは小学校です。
その意味ではませてたんですけど。
そこで、漫画家になりたくなりました。
ぼくの考えでは、漫画家って、
そういう存在にいちばん近かったから。
・・・思えば、そう気づいた時から、
ある意味では志を固めて、ずっとそうやって
生きてるような気がするんですよねぇ。
だから、狭いジャンルでいちばんになろうと
思ったこととかはいままでほとんどなくて、
いちばんになるんだったら、
誰もやっていないところで勝手にいちばんになって、
「あいつ、いちばんらしいよ」といわれているくらいの、
意味のないいちばんになりたいとか(笑)。
そういう発想に変えた途端に、楽しくなった。
ただ、自分は忙しくなりますよね?
呼ばれるお座敷が多くなりますから。 |
福武 |
わかります、わかります。
今の「ほぼ日刊イトイ新聞」がそうだよね。
すごくわかります、今の話。
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(つづきます)