糸井 |
内田さんは、民間企業から
都立高校の校長になられたはじめての方、
ということですが、
日立には何年勤められたんですか? |
内田 |
32年間です。 |
糸井 |
もう辞められたんですよね、もちろん。 |
内田 |
ええ。でも、
今でも日立製作所に支援と協力をいただき、
大ホールを借り切って
生徒達が合宿をやったりしているんですよ。
ありがたいことです。
民間出身いうメリットを出さないと
意味がないものですから(笑)。 |
糸井 |
内田さんが高校の校長先生になられたことで、
日立のイメージアップにもなりますね。 |
内田 |
そうかもしれません(笑)。
ただ、民間人出身の校長を東京都が検討する段階で、
日立という企業に目をとめた、というのは、
理解できるんです。
日立は、社内における教育が
ものすごくしっかりしていますから。 |
糸井 |
教育を重視している企業なんですね。 |
内田 |
ええ。
日立がなかったら、
わたしは教育とは縁がなかった。
正直いって、29歳までは
野球ばかりの人生でして・・・(笑)
総てが体験から得た教訓であるとか、
O.J.T中心の教育で
企業人としては、
これ!という教育もされてこなかった人間です。 |
糸井 |
日立の野球部でずっと活躍されていた。 |
内田 |
野球にひとくぎりついたのが29歳。
それからずうっと35〜36歳まで
1か月に1回ずつ、
社内研修は出るわ発表会はやるわ、
いろいろたたきこまれていく。
そんな会社のシステムになっているんですね。
日立はそういう環境のある会社です。
だから、都の教育庁は、
民間企業から校長を出すという案が立ったときに
最初から日立に注目していたと後から聞きました。
それが平成10年ごろですかね。
それで、日立にも話が来たらしい。 |
糸井 |
内田さんという個人とは関係なく、
まず日立のあたりにいるだろうと。 |
内田 |
「教育は難しい」ってことは
だれから見ても明らかなんです(笑)。
難しいと知っているからやりたい!
と、手を挙げる人はだれもいない。
会社を外れてそちらの道を行くというのも
ちょっと勇気が要りますから、
だれもがずうっと逃げ腰でいたらしいんですよ。
適任者を探すのは難しい。
勤労というところが一手に握っていたんですが、
都の商工会議所に教育庁が、
「こういう人はいませんか?」と投げかけて、
加盟企業に広く募ることにした。 |
糸井 |
・・・いろんな組織が出てくるんですね。 |
内田 |
ええ(笑)。 |
糸井 |
じゃ、日立だけに呼びかけられたわけじゃ
なかったんですか。 |
内田 |
12社ぐらいから
候補者が来たんじゃないですかね。
聞けばすぐにわかる企業から・・・
証券会社の人もいたなあ。 |
糸井 |
いろんな業種に制限なく声をかけたんですね。 |
内田 |
ええ。ただ、条件はありましたよ。
教員免許はもちろん必要。
年齢は55歳くらいで、
経営を担当していること。
そして最後に、なぜか知らないけど、
タフな人間であること。
これがちょっと理解できなかったですね。 |
糸井 |
いや、よく理解できますよ(笑)。 |
内田 |
(笑)じつはわたしも実際に学校へ入って
やっとわかりましたよ。
タフじゃなきゃできない。
応募のときに、
「タフで、スポーツをやった方なら、なおさらいい」
といわれましたから。
だから、わたしが書いたレポート
「あなたが都立学校長になった時の抱負」のウケが
よかったのかもしれない。 |
糸井 |
最初から内田さんは
有力視されていたんでしょうか? |
内田 |
いや、そんなことはありません。
ただ、わたしの書いたレポートの内容のほとんどが
都立の高校が教育改革で
やろうとしていることと重なったんです。
わたしは日立にいる間に、
そのことを全く知らないでレポートを書いたんですよ。 |
糸井 |
ご自分がもともと考えていたことと
重なったんですね。 |
内田 |
面接のときにも「おかしいな」と思ったんです。
内容について確認されたり、
面接官がやけに深く突っ込んで聞いてくる。
「いやによくわかるってる人たちだな」
と思ったら、ちょうど同じことを考えていた。
そういうことで、面接も
点がよかったんじゃないですかね(笑)。 |
糸井 |
でも、校長となって
教育界に行ってみたいという気持ちと
このまま日立に残りたいという気持ちと
正直にいって、両方がありませんでしたか? |
内田 |
「日立代表で行くんだ」といわれたものですから、
ちょっと神経は使って、
まずレポートは、まじめに書きました。 |
糸井 |
オリンピック出場
みたいなことなんですか。 |
内田 |
そうなんですよ。
「みんな一流企業が数社、受けに来ているよ」
という話が耳に入ってくる(笑)。
そのときにわたしはちょうど仕事で
中国へ出張していたんです。
ええっと(机に出してあったファイルをめくる)、
レポートを6月末に出して、
中国から呼び戻されて、
7月10日あたりに面接をやります
という話になりましてね。
それで、面接は45分間だったと思います。 |
糸井 |
・・・ご自分を語るための資料までこうやって
用意されてるんですね。 |
内田 |
もう、取材がすごいんですよ。
いちいち説明していると大変だから。 |
糸井 |
こういうところも、現在校長先生として
やっていらっしゃることの
一端をのぞかせていますね。 |
内田 |
そうです。
これ、全部自分の資料なんですよ。
今度はこう、今度はこう。 |
糸井 |
何を聞かれたら、このページと(笑)。 |
内田 |
もうこのファイルひとつで
自分のやり終わったこととか、
力を入れていることは
一目瞭然に全部が見れますから。 |
糸井 |
このファイルは、できたのは最近ですか? |
内田 |
そうですね。講演や
取材をされるたびにこのファイルのことを
質問されます。 |
糸井 |
そうでしょう。
いろんな資料が・・・立派だもの。 |
内田 |
たとえば、取材されるとき、
自分が考えてなかったことを質問されたり
取材者がわの意見を伺うことがあります。
「ああ、そういう見方もあるんだな」ということで、
さらに自分で勉強して
自分なりに資料を加えていって、そうして
だんだんふえてきたんですよ。 |
糸井 |
日立にいるときも
そうなさってました? |
内田 |
(笑)ええ。 |
糸井 |
学校の校長先生という立場もそうでしょうけど、
外側を取り囲む人と接することで、
ますます考えることの幅が大きくなっていって、
自分の意見に結びついていくんですね。
でも、悪くいえば、
吹きさらしの中にいるわけですね。 |
内田 |
うん、そうですね。
日立にいたときは企業人でしたから、
日立を中心とした
わたしに対する社会的なイメージと
わたしの持っているものの考え方は
財産になっていました。
でも、教育界に関しては、ゼロです。
財産は何もない。
まずは、自分の今まで育ってきたものの考え方で
教育の世界に入って、できることをやる。
教育界という異文化で
わたしが感じたことというのは、
この2年間ぐらいは通用すると思うんです。
勝負は3年目からかな、と思っているんです。
3年目から自分の新しい教育を
どういうふうにやるか、
自分なりに考えて、アイデアが出てくれば、
これはしめたものかなと。 |
糸井 |
ということは、今はまだ
これまでの資産を使い減りさせているというか、
試しているという時期なんですか。 |
内田 |
ええ、そうです。
これからが勝負なんです。 |