おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson150 私がいいかいけないかそれが問題でなく 人から責められたときって、 二通りの心理が働く。 ひとつは、自己弁護。 私は、そんな人間じゃない。 ちゃんと考えて、こんなにがんばってやってるのに。 「あたしは悪くない!」という心理。 もうひとつは、自己嫌悪。 私ってなんでこうなんだろう! みんなに迷惑をかけて、自分で自分がイヤになる。 「ぜんぶあたしが悪いのよ!」という心理。 この二つは、正反対のようだけど、 自分に意識が集中している点で似ている。 この二つは、同じ「問い」から成っている。 「争点について、あたしはいいか? いけないか?」 だから私自身、たいてい、このどっちかではなくて、 この両方で、一人舞台を繰り広げることになる。 「あたしは悪くない!」 と突っぱねるそばから、良心を痛め、 「ぜんぶあたしが悪いのよ!」と言ってみては、 どっかで自分は悪くないというおもいがこみあげる。 ぎったん、ばったん、ああでもなくこうでもなく、 とやっている。あげく、いつも、感覚的に、 「ここ突っ込んでも出口ないやろ」と気づかされる。 いいかげんに学習せねば! けっこうやっかいなのが、 この問いについて、どっちの立場を選んでも、 度がすぎれば、結局、相手を責めていることだ。 だって、相手は私の非を責めてんだから、 「あたしは悪くない!」を言い過ぎれば、 「あんたがまちがってんのよ!」になり、 「ぜんぶあたしが悪いのよ!」を言い過ぎれば、 「あんたがこんなにあたしを落ち込ませてんのよ!」 になる。 自分もぎったん、相手もばったん、 もつれにもつれて、いきなり、 「私たち合わないんだわ、さよなら」となる。はやっ! でもこれ、相性の問題か? 赤の他人同士が出会って、 せっかくぶつかれるところまで近づけたのに、 それじゃ、気持ちの持久力なさすぎのような気もする。 もったいなくない? (エコー: なくない? なくない?……) 自己評価が低いとされる日本人だからなのか、 どうも、自罰的な人が多いように思う。 自分を裁くか? 相手を裁くか? しかないんだろうか。 昔から、人は、おなじような状況で、 おなじような人間関係にもつれ、 おなじように悩んでいる。 いいかげん学習しないのか? はっ、このフレーズ! そうこれは、先週観た演劇のパンフレットの言葉。 先週私は、美大の学生さんたちによる芝居を観にいった。 映像演劇科の3年生であり、「ほぼ日」の読者でもあり、 友人でもある、脚本を書いた千恵さんは、こう書いていた。 「いつの時代でも、 同じような人がいて、 同じような関係性が生まれ、 同じように人は悩む。」 その普遍性は果てしなく恐ろしい、と。 その芝居は、普遍の悩みを描いた大作「ハムレット」を、 現代の目からとらえたもので、タイトルを 「生か死かそれが問題でなく。」という。 ハムレットには、生か死か、それが問題だった。 でも、わたしたちは、いま、 「生きるか死ぬか、それが問題ではない」 時代を生きている。 たとえば、 人の関係性も、 そこから生じる人間普遍の悩みのパターンも、 豊富な種類が集められ、 それぞれにシミュレーションしつくされ、 カタログとして見せつけられてしまったら、どうだろう? 千恵さんの言葉はつづく、 「現代は、その普遍性が その種類も量も一度に閲覧できてしまうほど、 自分の外側からの情報が充実している。 この中で自分が生きることは、 既存のパターンを選択するだけなのだろうか……? すべてが一覧になった世の中をどんな指針で生きるのか? 現代の私たちがスタートする地点は、自分次第、 つまり自分の中の可能性を自分が形にしていくこと、 それ次第なのでしょう。 私も含めたくさんの人が過去のパターンからでなく、 自分の可能性から 自分を形成するようになって欲しいと思う。」 生か死かそれが問題でなく、 と私は、繰り返してみた。 私は、古来えんえんと繰り広げられてきた関係性の中で、 古来えんえんと繰り広げられてきた悩みを悩んでいる。 ハムレットさんと違うのは、 データやマニュアルがたくさんあることだ。 生きるべきか? 一歩踏み出そうとすれば、だれかが、 「それは、もう、シミュレーション済みですよ。 統計から行って、効率の悪いやり方です。 このような傾向には、こう対策するのがいいのです。」 死ぬべきか? きびすを返せば、だれかが、 「それは、もう、シミュレーション済みですよ。 これが先輩たちの体験談集です。ま、 後悔しない進路選択、ベスト3はこれになります。」 すでに出尽くしたパターンの一覧から選ぶしか うちらにはないんだろうか? それでも今日、 こんなありふれた小さな、人との衝突にさえ、 出口を見つけられない自分がいる。 「あたしが正しいか? 悪いか?」 それが問題ではなく、 「あたしが悪いか? 相手が悪いか?」 それが問題ではなく、 そこに、カタログから、 どれかのパターンを選んではめこんでも、 両者の納得感という、要のパーツは埋らない。 「あたしが正しいか? 悪いか?」 それが問題ではなく、 「あたしが悪いか? 相手が悪いか?」 それが問題ではなく、 じゃあ、何が問題なのか? それを考えるのが、既存のパターンに陥らず、 自分の内面に応じた可能性を、 自分から打ち出していくことなんじゃないかと思う。 人間関係は、考えすぎてはいけないとか、 考えてもどうにもならないとか、よく言われる。 たしかに考えて どうにもならないことが多すぎる世の中だ。 「人がものを考える技術のサポート」という 小論文の仕事をするようになって、 たびたび私は、考えるということの無力感に襲われる。 人には、心や想いがある。 でも、自分の内面を知るには、 繰り返し、繰り返し、自分に「問い」かけること、 そのために、有効な「問い」を見つけていくことが 必要なんだと私は思う。 それが、やっぱり、考えるという作業なのだ。 「あたしがいいか? 悪いか?」 同じような出口のない悩みに躓くとき、 一つ言えるのは、やはり、 これまでと同じパターンの「問い」を握り締めている。 既存のパターンから脱却するには、 じゃあ何が問題なのか? 問いを探し、試し、人との関わりの中で、 自分の、新しい問いを 発見していくことではないだろうか? 「あたしが正しいか? 悪いか?」 それが問題ではないとき、 争点となっていることについて、 今現在、自分はどんな価値観をもっているか? これから未来に向けてどうしていきたいか? 「あたしが悪いか?相手が悪いか?」 それが問題ではないとき、 衝突が起こる以前の日常で、 知らずに相手を追い込むようなことをしていなかったか? 自分は、知らず知らずストレスを抱え込むような回路に 自分を追い込んでいなかったか? どうすれば問題を解決できるのか? たとえばそんなふうに、繰り返し繰り返し、 新しい角度からの問いを見つけようと挑むことで、 自分の可能性を試し、 外と関わっていけるんじゃないだろうか? 毎度、似たような出口がない問題に行き当たるとき、 同じ出口のない問いを抱えていたなと気づいたとき、 では、何が問題なんだろう? 新しい「問い」を発見するチャンスなんだと思う。 『伝わる・揺さぶる!文章を書く』 山田ズーニー著 PHP新書660円 内容紹介(PHP新書リードより) お願い、お詫び、議事録、志望理由など、 私たちは日々、文章を書いている。 どんな小さなメモにも、 読み手がいて、目指す結果がある。 どうしたら誤解されずに想いを伝え、 読み手の気持ちを動かすことができるのだろう? 自分の頭で考え、他者と関わることの 痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。 (書き下ろし236ページ) |
2003-06-04-WED
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