YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson156 記憶のクリエイション

人を運んでいるものは、結局、人の記憶ではないか?

自分の記憶、そして、
人の中に記憶として残っている自分の印象。

その時、本当に自分がどうであったかでなく、
その人に実際に何をしたかでなく、

自分が人の記憶にどう残っているかが問題なのだ。

そんなことを切実に感じはじめたのは、
会社を辞めて、一人で仕事をしはじめてからのことだ。

辞めてしばらくは、ひんぱんにやりとりしていた
会社の人たちとのメールも、
日をおって少なくなり、
やがて、ぷっつり、とだえていった。

Out of sight,out of mind.

顔をあわせないと、人は私のことを忘れていく。
その淋しさをなんと名づけていいかわからないが、
ふしぎと安らぐ感じもした。

私がいなくなったのに、そこにいる人々が、
私を1ミリも忘れなかったら、
そのほうが、
ずっとつらいのだということに初めて気づいた。

私は、こうして、その人たちの視界から姿を消し、
だから、その人たちの記憶からも、忘れられていく。
しんと、いい感じがした。

などと、感傷にひたっている場合ではなかった!

会社を辞めて、たぶん、いちばん人に会ったり、
あたらしい人脈をつくっていかなきゃならならないときに、
私は、原稿で身動きがとれなくなっていた。
何日もだれとも会わず、ただこもってものを書く。
親しいともだちにさえ、会う時間がない。
会えないから、忘れられていく。

こうして、人とどんどん、顔をあわせなくなって
古い仲間からも
今の仲間からも、
地球上からどんどん忘れ去られていって、
人からも、仕事からも干されてしまったら、
私は、どうなるんだろう?

そんな危機感でいっぱいになって、焦って、
あきらめかけたころに、

ひょい、となぜか仕事が舞い込む。

この3年間、営業というものをまったくしていないのに、
ひょい、また、ひょい、と。
不思議にとぎれることなく仕事がきた。

それで「なぜ私に?」とたずねてみると、
たとえば、ある企画があって、
これをだれにやらせようか、というとき、
担当者の脳裏をふっとよぎる、私の存在がある。
あるいは、
担当者が、だれかいないかと人に聞いたときに、
ふっと、私の名前を思い出してくれる人がいる。

それは、たった1回しか会っていない人だったり、
もう、何年も会っていない人だったり、
一度も会ったことなく、ただ私が昔やった仕事を見て
覚えていてくださった人だったりする。
本当に、そのたびに、意外さに驚く。

そこで記憶に残らなければアウトだ。

だが、人からどんどん忘れられ、のみのように、
あとひと押しでプチッとつぶれるかに見える自分も、
意外にも人びとの中に、
雑草の根のような記憶を落としていたんだなと気づく。

実際に仕事をする段になって、お会いすると、
私が、そのとき、その人に残した記憶は、
いま話しても、鮮やかに蘇り、
ちっとも風化してないように感じる。
しかもそれは、美化されて以前より鮮烈になっている。

ああ、あのときの、あの私は、
こんなふうに、この人の記憶の中で、再構築されて、
生きているのか…。
ふしぎな、あたたかい気持ちがする。

そしてどんなに緻密な仕事をし、
りっぱなコミュニケーションを人とできたとしても、
人の記憶にも、自分の記憶にも、残らないものは、
どうにも、ひっかかりようがないのだ。
あらためて考えると、これは恐いことだ。

いまは、原稿書きも少しだけ慣れて、
時間をつくって人に会ったり
外にもどんどん出られるようになった。
友人たちもこれだけ会ってれば、
忘れたくても忘れられないだろう。

だが、最初の2年は、そんな感じで、
人の記憶によってかろうじて生かされ、
人びとの記憶の中にある、自分という残像に、
ひとつ、また、一つと対面して、
私という存在が何であったか、
輪郭を外側からたどるような日々だった。

ほぼ日にコラムを書くきっかけも、
私の文章、ではなく、
同僚が記憶に残った、私の仕事の姿を、
個人のホームページの日記にとどめたことから始まった。

最初の本を書くきっかけも、
おりから文章技術の本の必要性が出版界で高まっていた中、
編集担当者が、この企画をだれに? と考えたとき、
以前読んだこのコラムが、
記憶にひっかかっていたという。
具体的にはどれかと聞いたら、
Lesson14 
メッセージを伝える、私とあなたの出会った意味
だと言っていた。

人の記憶が私を運び、次の道を指し示した。
ときには、いかに私が行きたい道であっても、
人の記憶が道を塞いだ。
反対に、自分では、意外な道も人に運ばれ、歩いてみると、
不思議なことに、もともと私が行きたい道だったと気づく。

これは、なぜだろう?

最近私は、昔、好きだったレコードを
CDで買いなおした。
それは、十代から、私の世界の一角をなしているレコードで
レコードが聴けなくなって以来、もう20年も封印され、
それでも、私の中で
なお鮮やかな印象が消えなかったものだ。

ところが! 20年ぶりに聞いてみると
おもったよりつまらないのだ。
その間あたためてきた、わたしの記憶の方が
ずっとずっと、豊かで素晴らしい。
私の世界の一角が、急にひらべったくなった気がした。

聴くんじゃなかった。

人の記憶は、自分勝手なものだ。
勝手なところは捨て、勝手なところだけ肥大させ、
ときには、時系列さえ無視し、
事実と似て非なる世界を刻み込む。

しかも、それが、自分でさえもコントロールできない
無意識の部分で、
ふるいにかけられたり、解体されたり、
編集作業がおこなわれていることが、面白い。

どんなおとなになっても、こどものころの
へんっなことを、どうしてだか、いつまでも覚えている。
自分でどうすることもできない。

記憶は創造だ。しかも無意識の創造だ。

20年前のレコードの封印を解いてしまった私は、
そのあいだに、もう、できていた記憶の体系、
自分の中で再構築されたものを、   ←クリエイティブ
実際のものを聴きなおすことで、    ←現実
20年前に戻すことになってしまった。

わたしは、昔受けた印象に基づいて何かを書くとき、
例えば10年前に観たビデオの印象に基づいて
何かを伝えようとするとき、
もう一度、それを見直して書くか、
記憶で書くか、迷っていたが、

記憶で書く時は、記憶で書ききらないと、
もういっぺん、
見直したりしちゃあいけないのだ、と思った。

せっかくの長い年月で、
記憶というふるいにかけられ再構築されたものを
10年前に戻すことになるからだ。

だから、古い資料と首っ引きで書くものは
いくら正確に書いても、
なかなか人の印象に残らないのだな、と思う。

人を運んでいるものは その人の記憶である。
その人に関するまわりの人の記憶である。

記憶には、人の無意識の想い、願い、創造が
込められているような気がする。

だからこそ、自分に関する人の記憶は、
それがいかに曖昧であっても、
いかに美化され、いかに事実関係が違っていても、
耳を傾ける価値があるように思う。

だからこそ、
人の記憶によって運ばれ、開かれた道であれば、
歩いてみる価値があるように思う。
そのときは意外でも、目的地についてみれば。
それが、まさに、自分の行きたかった道ではないか。
時間のふるいにゆっくりとかけられて。




『伝わる・揺さぶる!文章を書く』
山田ズーニー著 PHP新書660円


内容紹介(PHP新書リードより)
お願い、お詫び、議事録、志望理由など、
私たちは日々、文章を書いている。
どんな小さなメモにも、
読み手がいて、目指す結果がある。
どうしたら誤解されずに想いを伝え、
読み手の気持ちを動かすことができるのだろう?
自分の頭で考え、他者と関わることの
痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。
(書き下ろし236ページ)

2003-07-16-WED
YAMADA
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