おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson158 人の話が聞ける強さ もう死んだけど、 おばあちゃんと話していたときの、 あの不思議なやすらぎは何だったろうなあ。 私が何を言っても、 言葉のひとつひとつをじっくり、大事に聞いてくれる。 「ふんふん、そうか、そうか」とうなずいて。 「ようやったなあ」とほめてくれたり、 「いけんかったなあ」と一緒に哀しんでくれたり、 こどもの脈絡のない長い話を決してあきることなく、 おもしろそうに、いつまでも聞いてくれた。 折り紙かなにか、おばあちゃんが捨てたと、 私がおばあちゃんを怒ったときは、 心から本当にすまなさそうにしていた。 あれが、いかに、 コミュニケーション・ステージの高い行為か、 おばあちゃん、私はいまごろ、ようやくわかったよ。 人の話をわかる、相手を理解する これがコミュニケーションのスタートにして 最終目的地じゃないか、 みたいなことを近ごろ、つくづく思うのだ。 時代的には、 「日本人よ、もっと自己主張せよ!」 っていうことなんだろう。 でも、自己主張なら反射神経でもできる。 人を理解することは、 知性を鍛えないとできないんじゃないかと、 ふと思ったのだ。 一時は、自己主張の強い人に わたしもあこがれた。 たとえば、私が「Aという映画がよかった」と言えば、 「Aなんて最低、映画なら絶対Bよ!」 というようなことが、私の前で、悪びれもせず、 即座にビシッと言えるような人に、 かっこよさを感じたものだ。 「私は、これがいい! あれは、いや! あんたはちがう! 私はこう!」 やっぱり、自分が何を好きか知ってる人は、 迷いがないし、強いなあ! と。 そんなところに、 ただ、黙って、面白そうに話を聞いてるだけで、 「あんたは、Aなの、Bなの、どっちなの?」 と詰め寄っても、はっきり自己主張しないで、 口ごもってるような人がいたら、 なんとなく弱いような、 遅れをとってるような感じがしたものだ。 ところが、そうでもない。 いや、むしろ、そういう静かな人の中に、 コミュニケーションの志が高い人がいるんじゃないかと。 「私は、これが好き! あれは、いや! あんたの意見はちがう! 私はこう!」 っていう自己主張は、自分が生きてく上で、 自分がわかっていればいいことで、 コミュニケーションにおいて、 そんなに大切なものなんだろうか? 「Aという映画がよかった」と言う人に、 「Aなんて最低、私はBよ!」と言って、 だから、どうだと言うんだろうか? 最近、そんな気がしてきたのだ。 つまり、Bという映画が好きなことは、 自分がわかっていればいいことで、 わざわざ、相手にぶつけなくてもいいんじゃないか? そんなことよりも、 映画の話を通して、 相手という人間を理解することの方が、 ずっと面白いな、と。 どうも、私も含めて、まわり 「人の話が聞けていない」人が多いようなのだ。 だから、人の話を聞いていて、 「それ違う! 私はね」 と口をはさむタイミングが速すぎるのだ。 例えば映画の例で言うと、 太郎 「この前、マトリックス観にいってさ」 花子 「ああ、あれ、面白くなかった」 太郎 「え?! うそ、面白かったよ」 花子 「私はつまんなかった」 太郎 「俺的には、ぜったい!面白かった」 私は私、俺は俺、 私たち趣味があわないね、 チャンチャン!でおしまい。 脊髄反射みたいにしてしゃべっているとこうなる。 子どもの会話を見ていると、 この手の言い合いになったら、数の多いほうが勝つ。 単純に数の少ない方が負け、 1人ならいじめられたりする。 自分と主張があわない人に 橋をかけようというような作業は、 知的に発達しないと、なかなかむずかしいんだろうな。 最近よく話をするミホちゃんという友人は、 人の話を聞く力が深い。 例えば、私が「Aという映画がよかった」と言って、 仮に、ミホちゃんがそれに違和感をもったとしても、 決して、すぐ否定したり、 自分の主張をはさんだりしない。 必ず、1回は質問をはさむ。 「それは、どういうところがよかったの?」 1回は必ず、必要なら2回、3回と、 こうした質問をして、まず、私が言わんとすることを、 ちゃんと理解する。 この1回の質問が、できるようで、できない。 できる人がなかなか少ないし、 私もできていなかったことに、 ミホちゃんといて気づかされた。 つまり、映画はAがいいかBがいいか? でなく Aがいいと切り出したこの人が、言いたいことは何だろうか? Aがいいって言うこの人は、いったいどんな人なのか? 映画の話をきっかけに、相手という人間を掘り下げてみる。 人間同士が顔をつきあわせて話す面白さは、 むしろこちらにあるのではないだろうか? 知人のご主人で、家にいる限りずっと、テレビ、 それも特にくだらない番組ばっかりを 選り好んで見ている人がいた。 聞いたとたん私は、「そんな旦那さん、いやだ」と思った。 ところが、奥さんは言うのだ。 そのご主人は、理詰めの仕事をしていて、 仕事もハードで、1日中頭をつかって、ぐったり疲れてきて、 だからああしてテレビを観て、 頭をカラにしてバランスをとっているのじゃないかと。 その奥さんにとって、 テレビばっかり観ている人を、 私は好きか、きらいか? みたいな問題は、 まず、置いといて。それよりも、 テレビを観ているという行為を通して、 ご主人という人物を掘り下げてみる。 「この人は、どんな文脈を生きている人なのだろうか?」と。 友人のミホちゃんは、 私の間違いを指摘したり、否定したりすることはない。 なのに話していて私は、実に多くのことを気づかされる。 「それは、どんな意味で?」 「これはどういうところがいいの?」 ミホちゃんの問いかけに応じて、 自分で語っているうちに、 「あ、私、こういうところがミーハ―だな」 「まだまだ、私、こういうところが甘いな」と、 なぜだか、自分でどんどん気がついてしまうのだ。 異文化コミュニケーションとか、 むずかしいことを言うよりも、 「相手の言いたいこと聞こう、まず最後まで聞こう」 と思うことじゃないか。 自分が弱いころは、 私も、人の話を最後までじっくり聞けなかった。 聞いちゃったら、その人の意見に支配されてしまいそうで、 自分がなくなってしまうようで。 でも、そろそろ、自分が何が大事かわかってきた。 いまは、おばあちゃんのように、 人の話を「ほう、ほう!」とおもしろそうに最後まで、 心で聞ける老人を目指したい。 相手の意見に、違和感つきあげるとき、 のどもとまででかかった「そりゃ、ちがう!」という言葉を ぐっと飲み込んで、ひとつだけ質問してみようと想う。 「あなたは、なぜ、そう思うの?」と。 『伝わる・揺さぶる!文章を書く』 山田ズーニー著 PHP新書660円 内容紹介(PHP新書リードより) お願い、お詫び、議事録、志望理由など、 私たちは日々、文章を書いている。 どんな小さなメモにも、 読み手がいて、目指す結果がある。 どうしたら誤解されずに想いを伝え、 読み手の気持ちを動かすことができるのだろう? 自分の頭で考え、他者と関わることの 痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。 (書き下ろし236ページ) |
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2003-07-30-WED
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