おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson167 「くずれ」ない行き方 「学者くずれ」とか、「作家くずれ」とか、 世に「くずれ」という言葉があるけれど、 この、「くずれ」って何? というのが、ずいぶん長い間、ナゾだった。 私自身は、「くずれ」た人に会ったことなどない。 仕事で、学者さんにはたくさんお会いする。 また、学者なみの知識があっても、 はなから学者を目指さない人もいる。 いったん学者を目指したが、 転向して、他の仕事で活躍している人、 時間がかかっても、学者を目指している人、 みな、全然「くずれ」てなどいない。 だから、最初に、友人が、この言葉をつかっているのを 聞いたとき、ずいぶんと嫌なことばだなあ、と想った。 学者は、りっぱな仕事だが、 たくさんある職業のうちのひとつ、 目指す人は、一生かけて目指せばいいし、 目指したくない人は目指さない。 どんな仕事であろうと、 別に「くずれ」る必要などない。 それで、私の辞書に、この言葉はいらない、 と思っていた。 ところが、先日、教育関係の相談を受け、 ある人にお会いしたとき、 もしかして、こういう人のことを 「くずれ」と呼ぶのでは? 生まれてはじめて、そう思った。 ここでは仮に、Xさんとして進める。 Xさんは、教育になのか、学生になのか、 とにかく、ものすごく強い 「想い入れ」があることが感じられた。 また、独特の考えというか、 ある種の「能力」の高さも感じられた。 ところが、何かが恐ろしいくらいねじ曲がっている。 1時間の予定が、2時間以上、Xさんは想いを語り。 語れば、語るほど、周囲を混乱させた。 私は、Xさんの発する、ねじ曲がった磁場のようなものに、 からめとられて、一向に会話の出口を見出せず、 次回までに、解決すべき問題を整理し、 その優先順位をお伝えして帰るのがやっとだった。 帰り道、 私と、あと、仕事仲間3人で行ったのだが、 仲間たちは、カンカンに怒っていた。 「山田さんも、あんな失礼なことを言われて、 さぞ悔しかったでしょう」と。 そう言われて、私は、 「あ、ずいぶん失礼なことを言われていたのだ」 と、やっと気がついた。 ところが、自分でも驚くほど、腹が立っていない。 たぶん、それどころではなかったのだ。 それよりも、Xさんの発する 強烈な「ねじれ」の正体は、いったい何なのか? 私の興味は、そっちに全部、吸い寄せられていた。 あとから考えると、 Xさんの話は、論理展開が、むちゃくちゃだった。 仕事のミーティングは、 ふつうは、おおまかでも、なにか方向性があるものだ。 例えば、時期、対象、ねらいなどの、大枠から決めて、 そのあと、細かいことを決める、 「マクロ → ミクロ」とか。 過去の背景から入って、現状の問題点を整理し、 そこで、この仕事では、何をねらうか、 と、話を進めていく、 「過去 → 現在 → 未来」とか。 何がしかの方向はある。 脱線したり、混沌としても、何か方向性をもって 話をすすめようとする。 ところが、Xさんの話は、まったく方向性がない。 いきなり各論から入る。 たとえて言えば、授業企画なら、学習目標をどうするか、 何回のどんな形式で授業をするか、 いつ? だれが? 何を? どうする? という骨組みを話さないうちに、 「生徒が座る椅子は、こういうものにしよう」 というような、瑣末な部分を、話し出す。 しかもその瑣末な部分に 独特のものすごく深いこだわりがある。 そして、話が、飛ぶ。 ひとつの「瑣末な部分」に、 思い入れ、こだわったかと思うと、 今度は、別の「瑣末な部分」にとびつき、 またそれに、妙に、深くこだわる。 これでは、いつまでたっても、骨組みが決まらない。 そこで、私たちが、 さきに考えていくといい要件を洗い出し、 話を方向づけようとすると、 私たちの、言葉尻をとって、はぐらかしてしまう。 そこで、私は、 学習目標のところだけ先に共有しようと思った。 学生にどうなってもらうか、という、 ゴールさえ共有しておけば、 あとは、こちらで、 授業のカリキュラムや具体案はつくれる。 できあがったものを見ていただいて、後日、また 会議をすればわかりやすいだろうと。 そこで私は、Xさんに、目指す学習のゴールを問うた。 だが、おそるべき、 ねじまがった返答ではぐらかされてしまう。 それならばと、こちらの考える、 学習のゴールをお話して、 これで進めてはどうかと提案する。 しかし、Xさんは、また、本筋に関係のない、 瑣末な部分のアイデアを思いつき、 それにまた、妙にこだわりだす。 いったいどうして、Xさんは、これほどに、 アトランダムな話し方をするのだろうか? 瑣末な話から、骨組みの方へ、 話の軌道修正を何度か試み、 そのたびに、はぐらかされ、を繰り返しているうちに、 私は、気がついた。 Xさんは、話をはぐらかしているのではない。 Xさんは、私たちに、いじわるをしているのでもない。 これが、そのまま、Xさんの「教育観」なんだ! すなわち、Xさんは、 教育において、 目指す方向、やりたいことが何もないのだ。 ただ、磁力のように、 強い「想い」だけが真ん中にあって、 あとは、部分的、瑣末なアイデアが、 何の方向性も、秩序ももたず、 アトランダムに浮かんでいるだけ。 これが、Xさんの内的世界だ。 そして、Xさんの真ん中にある「想い」とは、 大学と教授陣に対する、強く、しぶとい「怨み」だった。 Xさんからは、ふたことめには、いまの大学の教育や、 教授陣への怨みのことばが発せられた。 「ほんとうの大学教育はこうじゃない」 という、痛烈な反発だけがあり、 「では、どういう教育だったらいいのか?」という ビジョンがまったくない。 Xさんの話の秩序がばらばらで、伝わりにくいのは、 そのせいだな、と思った。 Xさんは、いわゆる、大学教授ではない。 しかし、また別の立場から、大学改革に貢献しようとか、 大学教育を補完しようという、建設的な考えでもない。 やろうとしていることは、 明らかに、大学教授の仕事の領域、 越権行為であり、学生の私物化だと、私は、感じた。 Xさんは、大学教授を目指すべきだったのではないか? と僭越ながら、私は本気でそう思った。 もともと教育への強い想いと、 学生への一角ならぬ愛情の持ち主であること、 また、独特の視点や能力を持っておられる方だな、 というのが感じられたからだ。 いま、そういう「教える」意欲に満ちた人は貴重だ。 いったい、何があったのかは、しらないが、 教授への道をあきらめたとき、 Xさんの想いと能力は、発路を失った。 しかし、Xさんは、どこかであきらめきれなかったのだ。 学生への愛情と、教育への想い、アイデアは、 ご自身の中で増殖していく。 しかし、それは、発路と方向性をもたないので、 いびつな膨らみ方をしているようだった。 ビジョンを持ったところで、 そこに進んでいくことはできないと、 どこかで知って、あえて、 方向性を持つのを避けているというか。 唯一、方向性があるとすれば、 それは、「大学と教授陣」への怨み、 「反発する」ことだけが、 Xさんの、いまの行動指針になっている。 これでは、アトランダムで、 論理が支離滅裂な話になるのも、 しかたがない、と思った。 いやな言葉だけれど、「くずれ」というのは、 どこかで、その夢をあきらめた人のうち、 どこかで、その夢をあきらめきれなかった人、 だと私は思う。 そして、「くずれ」た人は、 ほんとうは、その夢をあきらめてはいけなかった。 追い続けるべきだったと、私は本気で思う。 だって、どんなにつらい、あきらめだって、 たいていの人は、2、3年もすれば、 気持ちが薄れていく。 やがて、わりきったり、いいように考えて、 新しい道でちゃっかりと生きはじめる。 人は、忘れることの天才なのだ。 ところが、「くずれ」と言われる人は、 時が経っても、消えない、強い「想い」がある。 「想い」が消えないのは、 どこかで、「自分は負けていない」という 自分の能力への自信が断ち切れないからだろう。 それだけ、強い想いと、独自の何かがある人は、 より広く、より明るい方へ、 自分を活かすトライをし続けていったほうがいいと思う。 生かす場が狭ければ、才能はいびつになり、 ネガティブな方向に向かえば、才能は身を滅ぼす。 想いも、能力も、生かす方向が大切だと想う。 私は、夢は追い続けていれば、必ず叶う、 というような、甘い事を言いたいのではない。 ただ、それだけ、執着心があれば、 いい方向に向ければ、たいがいの困難は 越えられるのではないか、と言いたいのと。 そして、どうしてもあきらめなければならない場合、 自分で、ヘンなわりきり方や、 あきらめの線引きをしなくても、 ひたすら夢を追い続けていれば、 納得できる「終わり」は、 向こうからくる、と言いたいのだ。 だから、何も迷わず、夢はまっすぐ追っていいのだと。 あらゆる可能性を試し、 自分の限界までやって、 必然的に迎えた「終わり」であれば、 もう、体が、「あきらめきれる」のではないか? 「くずれ」と言われる人は、ここまで行ききってないから、 だから、執着心が消えないのではないだろうか? 人一倍の想いや能力をもった人が、 なにかのはずみに、 進むことも、方向転換することもできず、 なにか、人や社会に対して、 怨みなどの、ネガティブな想いに 深く深くとらわれていって、方向性を見失っていく。 そういう「くずれ」という危険性は、 どんな分野の、だれの中にも潜んでいると思う。 そうならない、ために、どうするか? 決して、安っぽい道徳心で、言うのでなく、 「感謝」しているかどうか? 自分に問う事だと思う。 これは、実に合理的な方法だと私は思っている。 ここのところ、 何に対しても、まったく、「感謝」してない、 というとき、自分は次のどちらかだ。 自分にとって良い情報がまったくとりこめていないか、 または、 自分にとって良い情報が入っているのに見極められない。 (=何が、自分を益するものか、自分で見分けられない) どっちにしても、このままでは行き詰まる。 逆に、しっかり「感謝」して、進んでいるということは、 自分を益する情報を、自分で認識し、よく取り込めている、 ということであり、 挫折感に周囲との関係性を見失ったときも、 「ありがとう」「ありがとう」を 手がかりに進んでいけば、 自分を生かす、明るい方向へ必ず出られると、私は思う。 このところ、綾小路きみまろさんとか、 歌手のKUMIKOさんとか、 売れなくても、周囲に理解されなくても、あきらめず、 中年をすぎて、まっすぐ、 きれいな花を咲かせる人が目立つ。 何歳になっても、夢を追い続けていられる人は、 向こうからまだ終わりがきていない、 夢を追う資格がある証拠だと私は思う。 『伝わる・揺さぶる!文章を書く』 山田ズーニー著 PHP新書660円 内容紹介(PHP新書リードより) お願い、お詫び、議事録、志望理由など、 私たちは日々、文章を書いている。 どんな小さなメモにも、 読み手がいて、目指す結果がある。 どうしたら誤解されずに想いを伝え、 読み手の気持ちを動かすことができるのだろう? 自分の頭で考え、他者と関わることの 痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。 (書き下ろし236ページ) |
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2003-10-08-WED
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