おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson 175 自分の才能はどこにある? 今日は、まず、読者メールをひとつ、 この時期、おなじ悩みの人もおおいのだろうか? >ズーニー先生 > >私は今就職先が決まっておらず、 >あせりの中で卒論を書いていて、 >私はどんなスタイルを作り出したいのだろうか >と考えてしまいました。 > >私は、いつも人に憧れてばかりで、 >自分のことが嫌でたまらなくなります。 >何がやりたいのか分からない。 >今やっていることが >本当にやりたいことではない気がする。 >そんな思いで日々過ごしています。 > >先生、自分の想いを見つけるヒントは >ありますでしょうか。 >あれば是非伝授していただきたいです。 >よろしくお願いします。 (読者Mさんからのメール) メールを読んで、あまずっぱかった。 これは、3年まえの私。 当時、 会社を辞めて半年、あたらしい道を模索していた私は、 「やりたいこと」を一日も早く、カタチにしなければ! という気負いと焦り、 一方で、一朝一夕にはひらけない現実に、 たびたび足を絡め取られていた。 「やりたいこと」に執着すると、ときに迷路にはまり、 自分が何をやりたいのか、 どこから来たのかさえ見失いそうになった。 当時の私は、自分の意志と腕一本で、 人生を切り開いていくのだという自信と重圧に 押しつぶされそうに生きていた。 それで、3年前、やっぱり私も、ヒントと伝授をもとめ、 尊敬する先輩のもとに行った。 そのとき先輩から聞いた「言葉」で、 3年前の私には、どうしても消化できなかったものがある。 それが、いま、 ようやく、消化できたので、 今日は、その話をしたい。 私もMさんの問いを完全に卒業したわけではない。 これは、ある意味、一生つづく問いなのだ。 偉そうなことはなにひとつ言えない私だが、 もしかしたら、 「やりたいことの迷路」にはまったとき、たたく、 サンドバッグくらいにはなる話かもしれない。 そのとき、先輩は私に、こう言ったのだ。 <自分が好きなことが必ずどこかにあって、 自分がそれにふさわしい才能を持ってるっていうふうに 思い込んでしまった段階から、 なにかこう、 「他者」とのつながりを断ち切ってしまうようなところも あるとおもうの。> これは、そのときの私には、噛んでも、かんでも、 どうにも理解できない言葉だった。 それどころか、たぶん、そのときの私は、 先輩に逆のことを 言ってもらえると期待してたんだと思う。 自分に合った、 自分の好きなものを発見しなさい、と。 だれにも、そういうものは、 もともと備わっているから、と。 自分の好きなことに突き進んでゆきなさい、と。 あなたには、その才能があるから、と。 そう言ってほしかったんだと思う。 それが、なんで、 「他者とのつながりを断ち切る」ことになるのか? もうどうにも、わからなかった。 でも、とても大切なことを言われたと、 体のどこかは知っていたのだろう。 3年間、この言葉は消えてゆかなかった。 あれから、3年。 「やりたいこと」をやるために 悲愴な決断をして会社を辞め、 フリーランスとしてやってきた私は、 「やりたいこと」をやれているのだろうか? 答えは、 大きくNO! で、 すっごくYES! だ。 逃げているのでも ごまかしているのでもない。 ほんとうにそうなのだ。 「思い通り」か、と言えば、 こんなに思い通りにならなかったことは人生でない。 しかし、その思い通りにならない道を歩いていると、 たびたび自分の「本望」と言えるような感動に ぶちあったった。 「思い通り」に選べなかった道が、 まっすぐに「本望」に通じている。 これは、どういうことだろう? この理屈を解明できないものの、 私は、経験を通して、 身体でうすうす理解しかかってきていた。 そんな矢先、 文春(2003, 12月号)で、 養老孟司さんが、 「天才」について書いていた記事を読んだ。 そこにはこうあった。 「才能をあまりに個人に 結びつけすぎるのも考えものです。」 たとえば、ピカソがキュービスムを描いたのも、 天然かというと、そうではなく、 同時代の様々な画家の「影響」があるのだと。 3年前、あの先輩が言った言葉を思い出した。 <だれにも個性があって、 だれにも能力が与えられている、 なんてことに、期待しすぎてはだめ。 それは、絶対あるとも言えないし、 絶対ないとも言えない。> たとえば、音楽がやりたくて、絶対音感がある、 というように、生きていくテーマと方法が一致していて、 やりたいことで、まったく悩まない人もいる。 だが、それは、ごくごくごく、レアなことなのだと。 養老さんの話に戻って、養老さんはさらに記事で、 天才は変わり者と言われるが、 「天才の条件は世の中に広く理解されること」だと言う。 たとえば、十数ケタの暗算ができる人は、 電卓のない時代には天才と呼ばれていたが、 いまや天才とは呼ばれない。 時代が価値を認めなければ天才ではない。 遺伝子が発見される前に、 遺伝の法則を発見してしまったメンデルは、 同時代の人に意義を認められず、 失意のうちに亡くなった、と。 私たちは、どうしても「天才」というと、 ある「個人」の中にあるのだろう、と思いがちだ。 もっと言えば、ある個人の「脳」の中にあるのだろうと。 ところが、養老さんは、こう結論づける。 「天才を測るモノサシは脳の中ではなく、 われわれの社会の中にある。」 この養老さんの言葉、 そして、3年まえの先輩の言葉、 そして、何より、 「人の縁」や「社会の流れ」に生かされてきた、 私のフリーランスの歩みがまざりあい、 私の頭にひとつの「アイデア」が浮かんだ。 それは、 空っぽの私が、 いろんなものが混ざり合った 濃いスープ海のような 人々や社会の前にたたずんでいる姿だ。 「才能は自分の中になく、社会の中にある。」 「才能は自分の中になく、他者の中にある。」 いったん、こう極論してしまったらどうか? すごく、極端だけど、何が見えてくるだろうか? 自分の中にもともと個性はない。 自分の中にもともと才能はない、としてみる。 自分の個性は、人に出会って、関わって、 自分の価値をみとめた相手の中にあると考えてみる。 たとえば、私だったら、 私の中に、本を書く能力はない、とする。 ある日、編集者のKさんと、Tさんが本を頼んでくださる。 そのとき、2人に会って、私の個性が生れた。 私の能力は、 Kさんと、Tさんの中にあった、ということになる。 そして、わたしの本を読んで、 なにか活かしてくださる読者がいたとする。 この社会に、そんな読者の方々がいたとして、 能力は、私の中を一人でじくじく探してもなかった。 書くという具体的な作業を通して、 人や社会の中にあった、ということになる。 やりたいことは、どこにある? ここにないと仮定してみたら? どこに? 『あなたの話はなぜ「通じない」のか』 筑摩書房1400円 『伝わる・揺さぶる!文章を書く』 山田ズーニー著 PHP新書660円 内容紹介(PHP新書リードより) お願い、お詫び、議事録、志望理由など、 私たちは日々、文章を書いている。 どんな小さなメモにも、 読み手がいて、目指す結果がある。 どうしたら誤解されずに想いを伝え、 読み手の気持ちを動かすことができるのだろう? 自分の頭で考え、他者と関わることの 痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。 (書き下ろし236ページ) |
山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
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2003-12-03-WED
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