おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson188 表現力への自由 先日、ある読者の方が、私の本の印象を 「自由を勝ち取るための戦いの記録」と言った。 つくづくそうだと思った。 私は、この4年間、 どうしてか、「幸せになりたい」と一度も思わなかった。 幸福でなく、「自由」を求めていた。 どうすれば自由になれるか? どっちが自由か? そんなことを、気がつけば必死で考えていた。 そして、いま、人が自由に生きる要件として、 「表現力」ということを、切実に想う。 作家でなくとも、アーティストでなくとも、 日常や、仕事のシーンで、 生活者として、仕事人として、人間として、 自分の想いをきちんと言葉にして 人に伝えられる人は自由だ。 このところ、編集者の方々とのやりとりが増えた。 その「言葉の力」に打たれる。 編集者は、人が書いたものを、ものすごい量読み、 考え抜き、人に伝え、日々言葉と格闘している。 そういうプロたちが、仕事という使命感・緊張感の中で、 本気で投げてくる言葉の球に、驚く。 言葉の中に、意志があり、色があり、その人がいる。 こちらが、どんな球を投げても、 受け取り、理解した上で、 そのままは返さない。 そこから、うまく飛び、 自分の色をこめた球を投げ返してくる。 意外性があり、発見がある。 メールをひらいたとたん、 私は、夕焼けに触れたり、 いまの社会に目を向けたり、 自分を見つけたり、いつのまにか、 いい仕事への情熱をかきたてられている。 これだけ言葉を、 自分のものとして使いこなせるようになれば、 遠くにいても相手との距離は近く、 自分のことはよく人に通じていて、 未知の人、未知の状況にも臆せず臨んでいける自由がある。 一方、表現力に躓きを抱えた若い人も、 教育の仕事をやっていると、よく目にする。 自分の想いを表現できない、以前に、 人前にまっすぐ立たない。 相手の顔をみない。 声が小さくとどかない。 言葉に実感がともなわない。 そんな状態の若い人は、 さぞ就職活動も困るだろうと、関係者にたずねると、 みな口をそろえて、 就職活動そのものをやめてしまうケースが とても多いのだと言う。 就職活動のコミュニケーションレベルはいきなり高い。 こんな状態のまま、面接に臨んでも、 スケート靴の履き方も知らない、氷の上で立てない人が、 いきなりスピードスケートのスタートラインに並ばされ、 競争させられるようなものだ。 「よーい、ドン!」といったら突然滑れる、ようになる、 わけがない。 それでも、その得体の知れない通じなさを、 ごくごく初歩的な、 コミュニケーションの躓きだとは認識できず、 「自分に能力がないのか?」 「自分に適性がないのか?」と、 内面によいものがあっても 就職そのものをあきらめてしまう。 先日、埼玉の大学で、 学生に30秒〜1分の短いスピーチをしてもらった。 文字にすれば200〜400字だ。 スピーチの下準備として、 白い紙の真ん中に、 テーマを書いてかこんでおき、 気になること、想うことを、 どんどん書き出してもらう。 書き散らかしたメモから、 「自分にとって切実に響くもの」を残し、 他を消していく。 その中から、最終的にひとつ、 話す動機も考えて、メインテーマを選ぶ。 メインテーマを、 また紙の真ん中に書いて、さらに自分に問いかけ、 自分の想いや考えを引き出し、書き出していく。 そこで、「意見」、つまり、その中で、 自分がいちばん言いたいことをはっきりさせる。 次に、「論拠」、 その意見が出てきた背景に想いをめぐらせ、 人に伝えるための根拠を導き出す。 話す前に、スピーチを聞いた人にどう想ってほしいか? あんまりねらいすぎてもいけないけど、 ちょっとだけ「目指す結果」をイメージしてみる。 さらに、「根本思想」、 自分の根っこにある想いを問うてみる。 その想いにうそのない内容か、問うてみる。 そうした上で、発表してもらっても、やっぱり、 予想以上に話せなくて、とまどう学生もいた。 言葉が、出るはずだ、出てこない。 ぽつり、と自分の想いを語る。 また、言葉につまる。重い沈黙がつづく。 そういうとき、その学生が無意識に、 しかし雄弁に、伝えているのは「不自由さ」だ。 そういう「不自由」を味わったことがない人はいないから 聞いている人までその不自由さに同化して、苦しくなる。 でも、立っているだけで、つらそうな、 消え入りそうな学生も、あきらめなかった。 沈黙がつづいても、粘り、最後まで自分の想いを伝えた。 だれ一人、ていのよいオチで切り上げて、 さっさとその場を去ろうとする学生はいなかった。 どうしてこんなに意欲と粘りがあるのだろう? どうして、こんなにひたむきで、努力家で、 内面によいものをもった学生が、自己表現において、 こんなにも不自由なとこに押し込められているんだろう? 檻も、カギもないのに。 いま、多くの人が、 受験を克服し、大学まで行って、 高い授業料を払い、 コツコツ真面目に4年間勉強して大学を出ても、 自分の想いを日本語でしゃべれるようにならない。 そのことに、言いようのない憤りがつきあげてくる。 一方で、自分の想いを実感のこもった言葉にし、 人の心に響く域まで表現できる学生もいる。 その差は何なのか? センスではない。文才でもない。理系・文系でもない。 単にアウトプットの場数の違いだ。 表現力のある人は、生活か、趣味か、仕事か、研究か、 人生のどっか、何かで、 自分の内面を表現したり、人に伝えたり、 アウトプットの場数を踏んで、表現力を鍛えている。 表現する機会がなく、継続的な営みもなく、 いきなりできる人がいるなら教えてほしい。 そんな人はいはしない。だから、 自分の想いを言葉で表現できるようにするには、 とにも、かくにも、アウトプットだ。 自分の想いを言葉にする。人に話す。文章に書く。 発信する。汗をかく。恥をかく。 「お勉強」はもういい。 いつまで、スケートのビデオを眺めて、 いつか滑れる、みたいなことをやりつづけるのか? 表現力は、就職とか、受験とか、 なにか先のものごとを通過するための手段なんかじゃない。 いまをつかむためだ。 いまをもっと面白がるためだ。 「自分の考えが求められたり、想いを表現する場がない」 のか? ほんとにそうか? 今日、直接間接、だれかと関わらなかったのか? 以前から、思っていることを、 今日、文章に書いてみることはできないのか? いま、自分の想いを表現できないのか? いま、想いを語らないで、いつ? 語る? いま、この人に、 自分の内面を伝えないで、だれに伝わる? 表現力は、いまをつかむためにある。 いま、自分になる、ことだ。 表現力の不自由さから一歩抜け出すなら、 その機会は、いま、おとずれている。 『あなたの話はなぜ「通じない」のか』 筑摩書房1400円 『伝わる・揺さぶる!文章を書く』 山田ズーニー著 PHP新書660円 内容紹介(PHP新書リードより) お願い、お詫び、議事録、志望理由など、 私たちは日々、文章を書いている。 どんな小さなメモにも、 読み手がいて、目指す結果がある。 どうしたら誤解されずに想いを伝え、 読み手の気持ちを動かすことができるのだろう? 自分の頭で考え、他者と関わることの 痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。 (書き下ろし236ページ) |
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2004-03-10-WED
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