おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson189 「いま」をとらえる表現力 いまから7、8年まえの、冬の朝、 出張先のホテル、 会社員として編集をしていた私は、 先輩と取材にむかうため、ホテルの玄関を出た。 そのとたん、骨の芯まで凍えるような冷気が襲ってきた。 なんだか今日は、ものすごく寒い、しかも雪まで。 よりによって、こんな日に取材なんて。 交通渋滞は大丈夫だろうか? 「うわあっ! さむいですねえ」と、私は、 縮みあがって、先輩を見た。 すると、先輩は、しずかに、 手をすっと、雪にかざし、 女優のようによく通る声、きれいな日本語で、 こう言った。「寒いね、でも…、」 「冬らしい。」 瞬間、外の世界が一変したことを、 いまも鮮やかに思い出す。 空からスローモーションのようにくる雪を、 白く、きれいだと感じた。 身体をしめつけていた冷気は、それゆえに 潔く、透き通って、美しいと感じた。 「ここは京都だ」と、今さらながら想った。 私は、京都の冬に触れた。 私は、ここ数年、 若い人の表現力に、強い危機感をもっている。 そう言うと、「今さら言うことでもない」と開き直る人や、 「私のまわりの若い人は、なかなかいいわよ」と、 個人差でかわして取り合ってくれない人がいる。 しかし、例えば、アウトプットのトレーニングをしていない 大学生が、身近なテーマで「自分の考えを話す」、 というシーンを、4、50人続けて見たあとの、 あのふさがれた気持ちを何と伝えたらいいのだろうか? ここで言う「表現力」とは、 うまい表現とか、 相手を感動させるという次元では、全然ない。 少なくとも、聞く人に、何を言っているかわかる程度に、 自分の考えが言えるという、ごくごく初歩的な次元だ。 問題の解答とか、テーマへの知識や情報なら つまり、 「自分の知ってること」なら、雄弁に話せる学生も、 「自分の考えたこと」 となると、とたんに、非常に口が重くなる。 私は、大学の就職担当の人から、こんな奇妙な話を聞いた。 学生の多くは、 「人前で話す」とか、「発表させられる」ことを すごく恐れている。それで、就職のためのセミナーなどで、 参加者を募集すると、募集窓口につめよって、 「この就職セミナー、何か、発表させられるとか、 何か、人前で話をさせられるようなことは、ぜったい、 ありませんよね? 絶対ないですよね? ね?」 と、ひどく神経質に確認をする学生が多いのだそうだ。 それで、なにか「人前で話す」というカリキュラムが 少しでもあると、 「申し込みそのものを辞めてしまう」というのだ。 私は、一瞬、何を言われているのかわからなかった。 もちろん、 人前で話すことのおっくうさは、私もよーくわかる。 若いときなら、なおさら嫌だろう。好きな人の方が珍しい。 でも、「イヤ」と「必要」とは別だ。 就職活動は、「人前で話す」ものだ。 それも、面接官たちの前で、たくさんのライバルの前で、 自分をPRし、選ばれなければならない。 「話す機会」を自分で捨てて、 「いざとなれば話せる」、のか? 学生の中にも、いきなりふられても、 自分が考えたことを、聞く人にわかるように話せ、 なおかつ、聞く人に何か感じさせる話ができる人もいる。 もちろん、数いる。 例えば、部活でキャプテンをしている、ある学生は、 自分がキャプテンになったことで、 同級生がみんな辞めてしまったこと、 それは他ならぬ自分の責任であること、 しかし、いまは後輩たちがよくついてくる、 活気のある部にできたことを、淡々と話した。 アナウンサーのようにしゃべりがうまいわけではない、 でも、伝わってくるのだ。 この学生が、ごく日常的に、 自分の想いや考えを人に伝えることをやっているからだ。 この学生だって、人前で話すのは好きではなかったろう。 でも、キャプテンだから、部員に、 想いや考えを話さなければならない。部が立ち行かない。 同級生が辞めていくシーンでは、自分の考えを たくさん語りかけ、説得せねばならなかったろう。 彼だって「話す側」より、 他の部員のように「聞く側」がラクだ。 だが、下級生がついてくる部にするまでには、 自分の考えを、たくさん、 行動や言葉に表さねばならなかった。 そのようにして、身についたのが表現力だ。 他にも、たまたま家が店をしていて、 店番をさせられていたとか、 家におとなの出入りが多く、いやでも会話に慣らされたとか、 人前で、何とか話せる学生は、好むと好まざるに関係なく、 日常のどこかで、表現への抵抗を減らす機会を持っている。 初対面のおとなと、ごくふつうに意思疎通ができる。 順番がまわってきたとき、逃げたりせず、 たどたどしくても自分の考えを最後まで言える。 今、危機を迎えているのは、 そうしたごく当たり前の表現力だ。 「人前で話をさせられるから」と、 せっかく応募に足を運んだ 就職セミナーそのものを辞めてしまう学生たちは、 就職活動の「表現力」をいったい、 どう捉えているのだろう? 私は、突き上げてくる違和感を、 編集者のTさんに言わずにおれなかった。Tさんは、 私が、新刊の書き下ろしの、 最後の最後で苦しんでいたとき、絶妙のタイミングで、 『あなたの話はなぜ「通じない」のか』 という言葉を示し、1冊の方向性を照らしてくれた人だ。 本当に、それより早くても遅くてもダメという、 絶妙のタイミングだった。そのまま本のタイトルになった。 Tさんは、すかさずこう言った。 「でも、若い人って、 表現したいって、よく言いますよね。」 そう! 表現したい、という願望は、とてもつよくある。 作家になりたい、ミュージシャンになりたい、 「わかんないけど、将来は何か、表現する仕事に就きたい」 と、とてもよく言う。 しかし、そういう人の中に、人前で話すことを避けたり、 おとなとか、 少しわずらわしい人間との関わりを避ける人がいる。 彼らにとっては、別ものなのだろうか? 今日、就職セミナーで、人前で、ちょっと、 自分の想ったことを言ってみることと、「表現」と。 今日、隣りにいる おばさんと話してみることと、「自己表現」と。 となりにいる人間との会話をこばみ、 「いつか作家になって…」と、 「表現」を理想郷に仰ぐ人は、 なにか大きな勘違いをしているのではないだろうか? 彼らにとって表現力って、いったい何なのだろう? 受験勉強をするように、 「さあ、表現するぞ!」と机にむかえば、 他人の目や、わずらわしい人との関わりあいがなければ、 「好きな環境」に、「ひとりにして」もらえれば、 「いつか」、「一夜にして」、 表現力はできるもの、……なのか? Tさんは、さらにこう言う。 表現をする人は、 「いま」をつかまえることのプロだと。 作家にしても、写真家にしても、音楽する人も、 「いま」をつかまえなければ、 二度とできない表現、というのがあって、 プロは「いま」しかないという、 その「いま」をパッとつかまえると。 決して逃さないのだ、と。 生きて、生活して、働いて、人と関わって、 わずらわしいことや、ちょっとした事件がおきて、去って。 あるいは、何にもおこらなくて、倦怠感があって、 それでも季節が流れて、人が動いて、人と別れて、 また、人と出会って。 そうした日々を生きていてこそ、訪れる、 「いま」という二度とない瞬間がある。 冒頭の、京都の冬の朝、 私たちが泊まっていたのは、 ロマンチックでもなんでもない、 すぐ外を車が行き交う、ビジネスホテルだ。 前の晩まで、「コンセプトが甘い」だの、 「企画の落としどころはどうする」の さんざん先輩とやりあった。 スケジュールはタイトで、 仕事はしゃがんで泣きたいほどあった。 二人とも、身体は疲れていた。 それがあってこそ、朝、ホテルの玄関を抜けたとき、 まったく偶然、出くわしてしまった、 「雪」であり、「京都の冬」だった。 先輩は、「いま」を、言葉でひとつかみした。 それは、そばにいた私まで、 観る世界を変える「ひと言」だった。 私は、「いま」を逃し、 逃したことさえ、もう少しで気づけなかった。 「表現」を、 生活と切り離されたユートピアのように仰ぐ人は、 「センス」に望み、 「どうしたらなれるか」と勉強法にも熱心だ。 「いつかその気になれば」、と「いつか」を仰ぎ、 結局、「いま」を逃しつづけている。 結局、何も自分を表現できずにいる。 『あなたの話はなぜ「通じない」のか』 筑摩書房1400円 『伝わる・揺さぶる!文章を書く』 山田ズーニー著 PHP新書660円 内容紹介(PHP新書リードより) お願い、お詫び、議事録、志望理由など、 私たちは日々、文章を書いている。 どんな小さなメモにも、 読み手がいて、目指す結果がある。 どうしたら誤解されずに想いを伝え、 読み手の気持ちを動かすことができるのだろう? 自分の頭で考え、他者と関わることの 痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。 (書き下ろし236ページ) |
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2004-03-17-WED
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