おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson190 自己実現難民? いま、就職そのものをやめる若者が多いと聞く。 そのたび思うのだ。 就職を、 「一大自己実現イベント」 にしちゃったものは何だろう? クリスマスも不思議だった。 この日を、もともとのキリスト教の精神とは関係ない 「恋人たちの一大イベント」 にしちゃったものは何だろう? と。 恋愛中の人が、時の力を借りていい雰囲気になる。 それはいいことなんだろう。 でも、だからといって、 恋人がいない人まで、不安になったり、 落ち込んだりする必要はなかったはずだ。 クリスマスに恋人がいないと外を歩けない、とか、 にわか恋人をしたてて、 という人まで出てくるともはや迷走だ。 自分たちで造り上げたコンセプトに、 自分たちではまりこんで、 身動きとれなくしてしまっている。 似た構造を、就職活動に見る。 就職は、いつから「やりたいことの一大イベント」みたいに はやしたてられるようになったんだろう? 就職をめざす若者に、まず、当然のように、 「きみは何がやりたいのか?」 という問いが投げかけられる。 「やりたい仕事に就こう!」「きみの夢を実現しよう!」 と励まされる。 さらに、自己分析や適性テストがあって、そこには、 「自分は何に向いているか?」 というような、「自分探し」のための問いがあって。 その問いの向こうには、きみにあった仕事があるはずだ、 という希望がかざされる。 面接官も、 「きみ、うちの企業にきて、何をやりたいんだね?」 と当然のことのように問う。 「やりたいこと」を軸に就職を考えていけるというのは、 それは、いいことなんだろう。 もともとやりたいことがあって、 その目的のもとに努力して、 見事、やりたい仕事に就けて、歓んでいる人は、 ほんとうにすがすがしい。周囲まですがすがしくなる。 「自分もそうありたい、みんなそうであれ」と 願う気持ちはよくわかる。 でも、そのことと、 「やりたいことが見つからない」から、 不安になっていい、落ち込んでいい、 ということは別だと思う。 「やりたいことが見つからない」 から就職に積極的になれない、とは傲慢だ。 「やりたいことが見つからない」 と不安を訴える若い人は多い。 どうして、 そんなにこの問いにはまるのか、ということと、 どうしてそこから「だから自分はダメなんだ」と 一直線に飛んでしまうのか、 違和感があってしょうがない。 「やりたいこと」 がはっきりした友人たちに引け目を感じ、 家では、「で、何がしたいのよ?」の声におびえ、 面接官の 「うちの会社で何をやりたいんだね?」の質問に疲れ、 なにより、内なる自分の声に、 「俺はやりたいことがないから、だからだめなんだ」 と嫌悪され、消耗し、就職そのものから逃れてしまう。 こういう人を見ていると、 「やりたいこと」の問いに疲れた 自己実現難民のようにさえ思えてしまう。 そうまでして「やりたいこと」の呪縛から逃れても、 会社は自己実現の場ではないのだ、皮肉なことに。 ゆきすぎれば、就職後も、 自分がやりたいことができる理想の会社は どこかにあるはず、と、 短い期間で激しく転職を繰り返す、 自己実現ジプシーのような人もあらわれる。 以前、このコラムに寄稿してくれた 科学者の卵、春野蝶々さんから、 進路で迷ったときの、こんなエピソードを聞いた。 高校生であった蝶々さんは、 大学受験の進路を決める際、悩んだ。 「理系」に進める可能性も、 「文系」に進める可能性も、両方出てきたのだ。 高校生にとっては深刻な選択だ。 蝶々さんは、迷った。そして、考えた。 考えて、どうにもならないことも多い世の中だが。 この場合は、考えて、考えて、 とてもはっきりした答えが出たというのだ。 その答えとは、 「自分には決められない。」 ということだった。 たった一つ、 いまの自分には決められないんだ、ということが、 とてもはっきりわかったというのだ。 私が、蝶々さんが面白いと思うのは、 自分では決められないということで、 悩んだり、停滞したりしなかったことだ。 蝶々さんは、「自分には決められない」という答えを、 じつにさっぱりと受け入れた。それで、 自分で決められないなら受験結果に決めさせようと思った。 受けて、通った方に進む。 それを自分で考えて、決めて、引き受けた。 どんな結果になっても、自分の選択であり、責任だ。 それで、もうそれ以上は、悩んだり、困ったりせず、 理系と文系、両方の目標を設定して、 理系と文系、両方の勉強をコツコツと一生懸命やり通した。 結果は今、科学者の卵をやっている。 「やりたいことが見つからない。」 というとき、このこと自体が問題ではないと思う。 まだ、社会に出て働いたこともない若者の、 みんなに「やりたいこと」が あるはずだと考える方が無理がある。 私だって、ライフワークの「教育」は、就職活動のとき、 自分のどこを掘っても、悩んでも、出てきようがなかった。 就職にやぶれ、日給の編集アシスタントを3年し、 教育系の企業に採用になり、 16年近く社会に出て働く中で、 徐々に自分の中で育ってきたものだ。 「やりたいことが見つからない」というとき、 問題は、その答えをこばんだり、 いつまでもそこにうずくまったり、 それでも「俺は何がやりたいんだろう?」と いたずらに問いを握りしめ、 自分をもてあそんでしまうことではないだろうか? 蝶々さんだって、なにしろ高校生だったんだから、 「自分では決められないの…」といつまでも迷ったり、 いつまでも、うじうじ人に相談してまわったり、 受験勉強が苦しくなれば、 「進路がきまらないからだわ…」と 逃れたり、やろうと思えば、いくらでもできたはずだ。 でも、それをしなかった。 「やりたいことは?」という問いから 就職へのアクションをおこしていける人、 それでやる気がわく人は、どんどんすればいいと思う。 でも、その問いに答えが出ないとき、 「働くとはどういうことか?」 という問いから、考えていってもいいとおもう。 社会に出て、労働をし、生産をし、 それを受け取る人がいて、 お金が支払われて、自分のもとに入ってくる。 人がお金を支払うとき、なにがしかの共感が生まれている。 お金が社会をめぐりながら、 その流れに添って、生産や労働や、 人々の様々な想いが世の中を循環している。 この循環の中に身を置いて、 働いてこそ、わかることがある。 自分はどこまで通用するか、世の中はどうなってるのか。 人間にとって普遍のこととは何か。 この循環は、 「学び」をゴールにしたそれまでの学校という世界とも、 「遊び」の世界とも、 また全然ちがうダイナミックな循環だ。 はじめて経験する「社会」だ。 「社会」を経験するのだ。 社会の循環に関わることで、自分が社会そのものに影響する。 あるいは、 「自分でどうやって生計を立てていくか?」という 問いから発して、就職に入っていってもいいと思う。 家が裕福か貧しいかは関係ない。 学校を卒業したら、親にはお金おもらわず、 自分で生計を立てていくと決めて、 それを念頭に働くことを考えてもいいと思う。 自分で生計を立ててこそ、得る自由がある。 「やりたいこと」の問いにつまずいてしまったとき、 その問いにうずくまっていてはいけない。 そこで探すのは「自分」ではない。 どうしたら働いて生きていけるか? 社会に出る「道」を探ってほしい。 いまやりたいことがなくとも、 働き、自分で生計を立て、 社会に充分役立って生きていける。 どうやって社会に出て、 どうやって そこで信頼されて生きていけるかを探ってほしい。 あなたに、社会に出てきてほしいと思う。 『あなたの話はなぜ「通じない」のか』 筑摩書房1400円 『伝わる・揺さぶる!文章を書く』 山田ズーニー著 PHP新書660円 内容紹介(PHP新書リードより) お願い、お詫び、議事録、志望理由など、 私たちは日々、文章を書いている。 どんな小さなメモにも、 読み手がいて、目指す結果がある。 どうしたら誤解されずに想いを伝え、 読み手の気持ちを動かすことができるのだろう? 自分の頭で考え、他者と関わることの 痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。 (書き下ろし236ページ) |
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2004-03-24-WED
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