YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson193 理解の花が降るとき


人と人が出会って、
心に橋をかけていくときに、
いちばん大切なことはなんだろう?

相手をわかる力=「理解」ではないか。

あらためて今、
私は、そう思っている。

ここ3ヶ月は、仕事で、編集者さんや、大学関係者など、
たてつづけにたくさんの人とミーティングをした。
これは、とてもいい、希望のある時間だった。

うち、何人かの人とは、
たった数時間のミーティング、数回のやりとりで、
もう信頼関係ができている。

自分のことをわかってくれている、という安心感があるし、
なにか自分も相手のことを「わかっている」安心感がある。

この安心感はなんだろう?

反射的に、4年前、
フリーランスとして
スタートしたころのことを思い出していた。

あのころは、人に会うのがとても苦痛だった。

フリーランスとしての何の実績も、著書もなく、
自分を端的に証明するものが何もない。
何もないのに、
自分を説明しなければいけないのがつらかった。

外へ出れば、傷ついて、打ちひしがれて帰ってきた。

小さな誤解でも、心は波立つのに、
外側の情報だけで、誤解されたり、値踏みされたり、
決めつけられたり、心はよじれ、もがいていた。
あのころは、ほめられても、言葉が自分から遠く、
どこにも居場所はなかった。

フリーランスになってからの私は、
渇いていた。いつも、何かを待って、
雨を待って、いるような感覚だった。

人前に考えを表現するのは、
苦痛に満ちた仕事だなと思った。

どう表現したって、自分の内面を人にさらせば、
誤解は避けられない。
精いっぱい想いを表現して、理解されないのはつらい。
これをずっと続けなければいけないのかと。

あれから4年。いま、人に会うのがたのしい。

人と会うごとに、腹の底から満たされたような、
前に向かった、いい意気を引き出される。

依頼を受けて、打ち合わせにいくと、
多くの人が、「なぜ、私に依頼したいのか」、
私への理解を言葉にしてくださる。

この瞬間がかけがえない。

「私は、山田さんの書いたものをこう理解した。」
「私は、日ごろ、山田さんの仕事をこう見ている。」

その「理解」の言葉は深く、
胸の深くに、響いてくる。
一気に緊張は解け、相手と気持ちが通いはじめる。

「言葉」は、あの4年前のように、
ほめられても、けなされても、
自分から遠い、苦痛に満ちたものではない。なぜだろう?

ひと言、ひと言が、自分が大切にしてきたところに、
ぴたっ、ぴたっ、としみいってくる。

相手の手元を見ると、
私の本をたずさえていらっしゃることが多い。
ふり返れば、この4年間に、自分は、
書いたり、話したり、たくさん表現をした。

一つの仕事が点になり、
次の仕事で線になり、
方向性ができ、つながり、していったさまを
相手の方々は、よく見て、わかってくださっている。

だから、初対面でも、言葉が響くのだ。

理解されたいというとき、
自分の内面をたくさん表現することが必要だ。

あのフリーランスになりたてのとき、
自分は、まだ何も表現していなかった。だから、
相手の方も、わかりたくともわかれなかったのだ。

自分の底の底を、表現するのは、
なかなかつらいことだけれども、
そのようにして、はじめて、人は、
自分の底の底まで、
理解してくれる人に出会うことができる。

それは、自分の考えを表現する仕事をやってみるまで、
想像もし得なかった境地だった。

1人、お会いして、
惜しみない理解が注がれ、満たされ、
また1人、お会いして、
また惜しみない理解が注がれ、満たされ、
そうして、5人、10人、20人…と会っていくうちに、
降るように注がれる理解に、
感動的な気持ちになっていた。

理解の花が降リ注ぐような日々だった。

フリーランスになってから、
ツンドラ期のような毎日だったが、
その4年間の尾っぽの3ヶ月でやっと、
私は、たくさんの人の「理解」に出会えた。

よいときは短く、つらい日々は長い。
これからがまた、つらいんだろうけれど、
わかってくれる人がいる、という事実が、
心を強くしてくれそうだ。

私も、いま、人を理解したいと強く想っている。
人への理解は、
しっかりと、惜しみなく注ごうと思っている。

「理解」は、「褒める」ことと、ずいぶん違うなと、
今回、あらためて、気づかされた。

褒めるのは、褒め殺しという言葉があるように、
過ぎれば、相手をつぶしてしまうことがあるけれど、
理解は、注いでも、注いでも、注ぎ過ぎない、
相手を生かすものではないかと、いま、思っている。

私自身が、理解に干された日々と、
理解を注がれた日々を経験してみて思うのは、
理解は、「人を外に向かわせる」ということだ。

だれでも、
「この人には、理解してほしい」という存在がいる。

こどもは、100人の女性から理解されたとしても、
ただ1人、「母親」の理解が得られなければ、
世界から捨てられたような気持ちがするだろう。

だから、母親の理解が得られないと、
気を引いたり、気を引くために非行をしたり、
母親との関係に終始し、
そこでエネルギーを費やしてしまう。

逆に、母親から惜しみない理解を注がれると、
もう気が済んで、
それ以上、母親の気を引いたりしなくてよく、
目は、安心して外に向かう。
友だちや、社会に向かって羽ばたいていく。

こどもにとっての親、
生徒にとっての担任の先生、
社員にとっての上司……、

「この人には理解を得たい」
という相手から、理解されないと、
がまんしても心が固くなり、
内向きの関係にとらわれてしまう。

また、褒めるというのは、
自分を何も出さなくても、
ある程度やれてしまう行為だが、
「理解」は、つくづく、自分の内面を語る行為だと思う。

たとえば、「この生け花を褒める」だけなら、
「うまいね、きれいだね」
と自分を出さなくてもできる。でも、
「この花を生けた人の心を理解する」
となったらどうだろう?

何か、自分の感覚なり、考え方なり、経験なりを、
持ち出し、解きほぐし、
言葉を与えていかざるをえなくなる。

理解は、相手の内面を、いったん自分の中に取り込んで、
相手の内面と、自分の内面をすり合わせるようにして、
そこに言葉を与える行為だ。
だから、深い理解の言葉には、
語る人の内面がよく、表れている。

自分を「わかってくれた」人のことを、
なぜか自分も、「わかっている」と思えるのはそのためだ。
自分も相手をわかって、そして、相手の感覚を信頼できる。

だから、人は、自分を深く理解する存在を、
決してないがしろにはしないし、尊敬の念すら抱く。
「この人は、よくわかっている。
だから、この人に対して、下手なことはできない」と思う。
だから、理解は注ぎすぎても、褒めたおすのと違い、
相手との間に、良い緊張を保つと思う。

だから、相手を全力でわかろうとしてみる。
それを言葉にしてみる。
それを、コミュニケーションの要所で、
しっかり相手に注ぎ込む、というのは、
とても相手を生かすし、自分を生かすことだと思う。

自分の理解を待つ人はだれだろう?
私は、その人をもっともっと理解したいと思うし、
その理解を、もっともっと自分の想いが載った言葉で
言い表せるようになりたい。

今日、あなたの理解を待っている人はだれだろうか?




『あなたの話はなぜ「通じない」のか』
筑摩書房1400円




『伝わる・揺さぶる!文章を書く』
山田ズーニー著 PHP新書660円


内容紹介(PHP新書リードより)
お願い、お詫び、議事録、志望理由など、
私たちは日々、文章を書いている。
どんな小さなメモにも、
読み手がいて、目指す結果がある。
どうしたら誤解されずに想いを伝え、
読み手の気持ちを動かすことができるのだろう?
自分の頭で考え、他者と関わることの
痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。
(書き下ろし236ページ)

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2004-04-14-WED

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