Lesson417
速く、強く、伝わる言葉2
言葉にも、しらずしらずに贅肉がついている。
よく思われたいという虚栄心、
へんに思われるんじゃないかという恐れ、
おごりや、妙なへりくだり、
相手は自分のことをどう思っているのかという自意識‥‥。
そうした余念をすべてそぎ落とし、
無になったときに、
言葉は、ただそれだけの純粋な意味を背負い、
速く、強く、相手のもとに届く。
余念を払って無になること、
無の我に自信を持つこと、
日ごろからそうなるように訓練することが大切だと、
Lesson415「速く、強く、伝わる言葉」に書いた。
これには読者から深い理解と共感が寄せられた。
今日は、
自分の言葉が、贅肉をそぎ落としたアスリートのように、
速く、強く、伝わる道を、
読者メールを手がかりにつかんでいこう!
<魂から搾り出した言葉>
北島選手のあの言葉は、生きている言葉でした。
キラキラして美しかった。
人に伝わる言葉は、
魂から搾り出した言葉であると、実感することが多いです。
そうであれば、たとえそれが怒りであっても
美しい。
作られた言葉は、丁寧であればあるほど悲しく感じます。
余念がないことがむしろ不可解と思われる場も
少なくありません。
相手を持ち上げる気持ちとか
相手に叶わないとへりくだる気持ちとか
羨む気持ちとか、妬む気持ちとか、
悔しい気持ちとか、
誰かを一緒にバカにする気持ちとか、
そういう余念が求められる現場が確かにあり、
そこには、「余念が無い=話せない」との方程式が
存在しています。
そういう現場では、寂しくて閉じてしまいたくなり
ます。そうすると、
「自分で自分をごまかしたら元も子もない」という
気持ちが、湧きあがってきます。
たとえすぐに届かないとしても、
自分の中からの言葉で表現したいと、確認し続ける
日々です。
(Sarah)
<余念を言葉化してみる>
「言葉には余念が張り付いて、相手の元に旅立つ」
すごい表現ですね。
だからこそ、余念をからめつけて届けないためには、
自分が余念を持っていると言うことの自覚が
必要なのですね。
むしろ、届けたいものが「余念」であるとしたら、
それを、「伝えたいこと」として、表現するべきでしょう。
(ののこ)
<たった一言でもいいから>
先日、恋人と話し合いをしました。
もやもやしていることがあり、
でも素直に言えず、
かといって我慢することもできず、
結果的に、ひねくれた行動と言葉で表現してしまう、
そんな自分に嫌気がさし、
相手もそうなのでは、と思った末の話し合いでした。
結果からいうと、
相手は別に嫌になっているわけではありませんでした。
今まで同じようなことを何度も繰り返しています。
ただ、今回違ったことは、
「こういう話をしている時に、
あまり僕の言ったことを聞いていないよね」
と言われたことでした。びっくりしました。
自分ではそんなつもりはありませんでした。
相手の話を、集中して聞いていると思っていました。
「ずっと『なんで自分はこうなんだろう』って
考えているんじゃない?」
確かにその通りでした。
「聞く」「伝える」ということを
私は本当の意味でわかってなどいなかったのではないかと、
今ものすごく考えています。
私は自信のない人間です。
特に、好意を持っている人に対して、
生の言葉を伝えることが怖く、
今までほとんどしてきませんでした。
でも、そうしていると、
相手の生の言葉も、
思いも受け取れなくなってしまっているのではないか、
恋人は、そんなところも含めて、私だと言います。
すごく、ありがたい言葉なのでしょう。
なのに、私はそれを心の底から認めることができません。
そんな関係はすごく寂しいと思いました。
たった一言でもいいから、
私の生の言葉を伝えたい、
相手の思いを受け取りたい。
(あすか)
<削ぎ落とされた言葉の先に>
私は営業企画の部署にいるのですが、
もっぱら現場で、会議や打ち合わせなどのデスクワークが
ほとんどありませんでした。
上司が変わり、
議事録をとるように言われて悩みました。
私議事録ってとったことがない‥‥‥。
台本でも、インタビューでも、エッセイでもない
文ってどういうの?
混乱しているうちに会議が終わってしまいました。
先ほどの上司が、
メールで送った私の議事録を修正して返信してくれました。
それを見てびっくりしました。
わかりやすい。そして簡潔でした。
あんな曖昧なやり取りで終わった会議も、
内容に柱がたっていました。
削ぎ落とされた言葉の先に、自分のやるべきことが
ぱああっと開けて見えて、
爽快な気持ちになりました。
無になって削ぎ落として、核を伝える。
そんな体験でした。
「余念を振り落とし無になること、
無の我に自信をもつこと、
どうすればそのようになれるかと、
日々、訓練すること」
なんかそれってとてもやさしい心だなあと思いました。
(大田区のこまち)
「生の言葉で話していないと、相手の生の想いも聞けない」
という意味のことが、あすかさんのメールにあった。
自信のなさから、私たちは、
さまざまな怖れ、遠慮、配慮、飾りをはりつけて
言葉を発する。
すると、「相手も遠慮や配慮で
ほめてくれているのではないか」、
解釈にも余念がはいり、人の言葉が素直に聞けない。
余念が余念を生み、さらに相手を試すという悪循環。
こういうとき、ののこさんの言うように、
いったん、「余念を言葉化する」のは有効だと思う。
親や、無二の親友など、
大喧嘩しても絆が切れない相手なら、
それを直接会って、相手にぶつけてもいいかとも思う。
きれいごとではすまない人間関係で、お互いに、
みにくさをあらわにする時期も必要だと思うから。
でも、それ以外の人間関係で、なかなかそうはできない。
そんなときは、頭の中でシュミレーションしてみる。
私もシュミレーションしてみた。
私の陥りがちな自意識、
「私は、この人に嫌われているんだろうか?」
という疑念がよぎるというシーンで、
余念のほうを言葉にしていくと、こうなる。
「今日はいいお天気でしたね。
(なんて軽いあいさつから入る、
こんな私をあなたどう思う?
けっこう好印象でしょう? そうでもないですか?)」
「先日、こんな仕事をしてね。
(なんていう私って、けっこうすごいでしょう?
見直しました? どう?
それとも、やっぱり嫌いですか?)」
「この間こんな映画をみましてね。
(こんな映画見て、こんな感想を言う私に、
あなたは共感を覚えませんか?
私ってどう見えますか? やっぱり嫌いですか?
私のことをホントはどう思ってますか?)」
‥‥‥。つまらない!
自分で自分にドン引きした。
こんなやりとりは、ほんとーにつまらない。
時間も風景も無駄にしている、もったいないと感じ、
じゃあ、
「どうすれば、この場はおもしろくなるか?」
と、「問い」を修正し、
意識してよりおもしろいほうへ、
より自由な感じのするほうへ
問題関心を向けていった。
その果てに、ふと、無心になれている瞬間が
訪れたように思う。
余念の正体がわからないまま振り払おうとしても、
暗闇の敵をたおすようなもので、
なかなかできるものではない。
余念に言葉を与え、正体を見すえた上で切る。
別の問いを立てて、
そちらに問題関心を向け、それに向かって筋トレしていき、
その過程で、余分なものが削ぎ落ちていたという感じだ。
こまちさんの言うように、
ただ余念を削ぎ落とした、それだけなのに、
私も、ぱあっ、と視界がひらけ、
次やるべきことが見えてきた。
余念は、「余」念というくらい、
もともといらないものだったのだなあと、
なくしてからわかる。
「余念の言葉化」と「問いの修正」、
言葉に贅肉つくときは、
これからもやっていこうと私は思う。
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