YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson470
     「余分」のある言葉 2



「無意識のうちに、自分の言葉が、
 相手に余計な負担をあたえてしまっている、
 そんなことはないだろうか?」

という先週のコラム
Lesson469『「余分」のある言葉』には、
ものすごくたくさんのおたよりをいただいた。

大きく分けて、2とおり、

「よくぞ言ってくれた。
 自分のまわりにも、
 まるで胃もたれするように負担で
 素直に言葉を受け取れない人がいて困っていた」

という人と、

「まさに自分のことだ。
 自分は気づかぬうちに、
 人に負担を与えてしまっていた。
 そのため、相手から重いと言われてしまったり、
 引かれてしまったりしていた」

という人。まず、それぞれ1通ずつ紹介したい。

(注:その前にひとつだけ、
 「言葉に、それ以上の想いをこめてはいけないの?」
 というところに、ひっかかりをもったかたへ。

 ここで私は、「余分」という言葉を、
 「余計なもの」「邪魔もの」
 「相手に負担をしいるもの」
 「相手にとって迷惑なもの」
 という意味あいで使っています。

 さりげない言葉なのに、相手がじーんとするような
 素敵な想いがこもってしまうこと、
 つまり、「相手にとって嬉しい」ことは、
 ここでは「余分」と呼びません。

 言葉に、言外の想いがこもる、
 その想いが通じること自体は、
 このコラムでもさんざん言ってきたように、
 私がとても大切にしていることです。

 「余分」の定義はさまざまですが、
 ここでは私が、かなり自己流の定義をしていますので、
 「余計なもの」「相手に負担をしいるもの」
 「むしろ無いほうが通じるもの」
 という意味あいで解釈してくださると助かります。)


<「余分」の正体>

今回の『余分』のある言葉、まさに私の母親です。

家族や周囲に対し
何か別の想いを込めて言葉を発しています。

そのほとんどは何らかの『見返り』ですが。

「あなたの事をこんなに大事に想っているのに
 何でわかってくれないの」と。

私の母親も、先週のコラムで紹介されていた奥様も
きっと本人は全く気付いていないのでしょうね。
この奥様には気の毒ですが、
私はご主人の気持ちがよくわかります。

「『好き』だから○○して!」と
見返りを求められる愛情は夫婦の愛に限らず
ほんとうに重たいものです。

私自身は母親からの見返りつきの愛情が
受け入れられず、なるべく避けています。
父親は籍こそ抜いていないものの
昨年から別居しています。

求める方も求められる方も同じように
苦しいのだと思います。

けれど私や父親は、
母から『逃げる』事で自身を守っています。
(娘A)



<私の心も大事にしてやりたい>

今回の内容は嫌な感じだなあ。
それはこの管理人さんを
自分と重ね合わせてしまったから。

ここにいてと言われたいからでそんなに
一生懸命仕事できるかな。

重いってなに? 
不器用にしか言葉を使うことしか出来ない人間は
こうゆう必要以上にしゃべりすぎるときがあるよ。

だんなさんを大好きが相手に負担?
それは距離が必要ってこと?

常に相手の気持ちを考えて
好きのコントロールをしてたら、
本当の好きって感情がなくなってしまいそうです。

思いやりは大切だけど、
私の心も大事にしてやりたいな。

私が友達が長続きしないのはこの重さを感じるから
なのかもしれないね。
寂しいな。
(M)



今回は、「自分のことを言われているようで痛い」
と思った人も多かったようで、
そう自分で言える人は強いし、
自分を客観視できる人なのだと思う。

なかでもMさんは強いと思った。

「いやな感じ」を受けても、
書き手を攻撃せず、かといって自分を裁かず、
「自分の心も大事にしてやりたい」と言い、
安易にだれかのせいにせず、安易な決着をつけず、
じっくりじっくり考え続けていこうという
姿勢が伝わってくるからだ。

「寂しい」という
素直な想いを表現していることも、
まさに、私自身の気持ちを代弁してくれたかのような
共鳴する文章だと思った。

また、「娘Aさん」のように、
負担に感じる存在として「お母さん」をあげた人が
とても多かった。
多かったことに驚いた。

まちがっても、
「母の愛を負担だとはけしからん」という
議論にだけはなってほしくない。

多くの読者は言わなくても、もうわかっていると思うが、
先週のコラムに反応して、勇気を出して、
「母の親切が負担」と書いてきた人は、
親思いの、とてもいい娘や息子さんなのだ。

それだけに、「苦しんで」きた。

母の親切を、夢にも負担などと思ってはいけない、
負担に感じるということは自分がまちがっているのか、と。
優しいだけに、人に言えなくて、
逃げたり、苦しんだりしてできた。

私は、「娘Aさん」のように、まず、
「負担がある」ということを認める必要があると思う。

いい悪いではなく、「ある」と。

読者の2人は、こう見る。


<負担を認めて次に進める>

「余分」の話。
なんだかすごく ストンと入ってきました。

私は母との相性があまりよくありません。
母の「思い」が強すぎて苦手なんです。
家族のために一生懸命働いて、
自分のことは二の次にして‥‥
そういう母に感謝はしていますが
息苦しく感じることがあるのです。

こんなにつくしているのにっ
こんなにやってあげてるのにっ

つくした事に対して
「こんなにもしてくれてありがとう。」と
正当に評価されないことを不満に思うらしいのです。
しばしばそれが原因でモメます。

私は
「思い」も、「言葉」も、「行為」も、
「GIFT」は受け取った人のものだと思っています。
だから、母が期待しているような「ありがとう」が
出来ないときがあります。

私の心が狭いのか
私に何かが足りないのか
そう思ってました。
「余分」を感じ取って、負担に思うことは
誰にでもあるんですね。
ちょっとラクになりました。

では、その「余分」をうまく取り除く方法は
ないんだろうか‥‥?
次のステップに進めたような気がします。
(ロンビーノ)


<余分に気づかない人は
 無意識に人をコントロールしようとする>

私は余分のある言葉をしょっちゅう使っていた、
思春期以降、余分がずいぶん増えてきたと思います。

その余分はたとえば
「私、すごいでしょ」とか
「私は寂しい。私を好きになってください」とか、
言いたくても言いづらい事でした。

言葉に余分がたくさんある人は、
誰かに言いたくても言えない、でも言いたい、
そんな事がたくさんある人かなと思いました。
無意識のうちに人を
コントロールしようとしているふうにも思えます。

その余分になるような気持ちを、
自分で言葉でも何でも、いろいろな形で表現して
自分でその余分となってにじみ出る部分に気づいていく事は
大事な事だと思っていて
20代後半くらいから、ずっとそれを試みている気がします。
(Mirei)



「余分」を与えるほうも、それを「負担」に感じる人も、
「無自覚」だからこそ、人をコントロールし、
コントロールされる回路から逃げられない。

だから、「自覚」することが出発点。

その上で、一方的に、
自分の想いをおしこめるんじゃなくて、
「自分の心も大事にしてやりながら」、
いまより1ミリでも2ミリでもいいから、
「相手をより自由にしてあげられる」
コミュニケーションにするには、
どうしたらいいのだろうか?

もちろん答えはないのだが、
ヒントとなるおたよりをいろいろいただいたので、
次回はそれを紹介したい。

今回は、問題提起のある、このおたよりを
紹介して終わりたい。


<相手の作り出した自分を演じる負担>

「余分」のある言葉、楽しく読ませていただきました。
ただ一つだけ、言葉の背後にある思いが、
受け手に負担を与えるものだとすると

もしその背後にある思いが満たされれば、
彼らの言葉は透明感を取り戻すのか、
がひっかかりました。

例えば管理人さんの熱心な仕事ぶりが認められて、
定年が撤廃され、給料も上がったら
管理人さんは突如としてその口ぶりから「余分」を
取り除くことができるんでしょうか。

もしそうだとしたら、
負担を受け取るこちら側のゴールは
相手の背後にある思いを実現すべく
(少なくともその願いが
 社会的に許容されるものである限り)
動くことが望ましいことになりそうです。

でも何故か、この管理人さんは
任期がのびても相変わらずの言葉を
住民に投げかけている気がします。

閑話休題、
好き、が現実の対象である「あの人」から離れて
自分の頭の中にある「私の好きなあの人」になり
自分の作りだした想像上の対象を愛しだすようになると

自分が投げかける言葉と相手との間に
齟齬が生じて、言葉に違和感が生まれます。

私はこれを両親の言葉から体験しています。

私は浪人して、当時の自分からは
到底手が届かないと思われていた大学に受かりました。

ところが両親は
私が予備校の休みの間に3、4日ばかり帰省して
疲れて遅くまで寝ていて、
勉強のストレスを解消するためにひたすらゲームを
やり続けている姿しかみていなかったのでした。

合格後、勉強に使っていた教材やら
暗記のために使った何冊ものノートを見て、
向こうではたゆまぬ努力をしていたことを知った両親は、
それからはことあるごとに
「すごいね」「がんばってるね」とほめてくれます。

しかしそれは事実とは異なっていることが多々あって。
電話で話したりすると、きっとこいつは
以前のようにがんばっているんだろう、
と思ってほめてくれるものの、
実際は頑張れていない自分を強く認識してるときも
あるわけです。

でも両親は自分のイメージの中にある成功した私、
をほめている。
実際にはそんなことはない、と否定しても、
私が謙遜しているととられてしまう、
相手がほめてくれているのに、
こちらが違うといって怒りだすわけにもいかない、
という状況を経験しました。

相手が見ている自分じゃないもの、
を演じなければならないとしたらそれは負担ですよね。

私の場合、両親の幻想は私が大学院に落ちたことで
打ち砕かれましたが(笑)
(B)

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2009-12-09-WED
YAMADA
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