おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson509 自分のループを抜け出す ――2.違和感はどこからくるか? 「違和感」があるとき、 たとえば、 相手の行動を見て、 あるいは相手の言葉を聞いて、 イライラ・ザラザラするとき、 その「正体」を見極めないまま。 相手に違和感をぶつけてはいけない。 相手に対して、 イヤーな傷つけかたをしてしまう可能性がある。 私が、必死になって言えばいうほど、 私の話は説得力を欠き、 私の醜さを露呈し、 はたから見て、 そうとうイタイ状態になっている可能性がある。 相手はうんざりし、 私のことをいやになり、 場合によっては致命的決裂もある。 正体不明の「違和感」を抱えたら、 まず、相手に対する発言スイッチをいったん切って、 自分と交信することだ。 交信して、違和感の正体をつきとめる。 イライラ・ザラザラを抱えるのは苦しく、 すぐにも吐き出したくなるけど、がまんする。 大切な相手を失ってもいいの? 以上のことを、 私は、私自身にいま、とうとうと、 言い聞かせているところだ。 言い聞かせないと、私はこれからもしてしまう。 口が災いして、 不本意に大切な人と疎遠になるということを、 私は繰り返したくない。 私は経験上こう思う。 自分が主観的に「悪」だと自覚しているときより、 「正体不明の違和感=ザラザラ」 を抱えているときのほうが、 相手をとんでもなく傷つけてしまう。 「違和感がある」を理由に 相手をあげつらいたくなるときは、要注意だ。 “違和感はどこからくるか?” まだ編集者として会社につとめていたころ、 執筆者からあがってきた原稿を、 編集部のメンバーで読みあい、 意見を言いあっていたときのことだ。 一読して私は、違和感がある。 そしてこういうときは、なぜか饒舌になる。 いつもなら自分の意見をはっきりさせてから 発言するのだが、 その日は、得体の知れない違和感にかりたてられ、 聞かれてもいないのに、感想を言い始めた。 「違和感がある。 すんなり文章がはいってこない。 筆者の上から目線が気になるのかなあ…。 たとえばここ。 読者の高校生は、こういうふうな、 高いところから教えてあげるよ的な物言いを 嫌うからなあ」 通常では、会議で意見が伝わるとき、 うんうんとうなずくメンバーの姿など、 目に見えて「伝わっているな」と実感がある。 でも、このときは、他のメンバーは固い表情だ。 そこで私はさらに重ねる。 「だって、この最後だって、 “‥‥であろうか”って、問いかけにしているのも わざとらしくない?」 私が、言えばいうほど、 メンバーたちは、こわばり、 顔にハテナマークが浮かんでいく。 今から考えると、私はあきらかに、 筆者という「個人」をあげつらっていた。 通常なら、筆者の立てた「論」を検討する。 なのに、私はなんで必死になって 筆者をこきおろそうとしているのだろう? 言えばいうほど、メンバーの顔にハテナマーク。 むきになって主張する私。 「なんか、この筆者のこういう言い方って、 読者の高校生にも すんなり入っていかないんじゃあないかなあ。 筆者自体に偏見があるんじゃない。」 私が言えばいうほど、 場の空気が、なんか感じのわるーいものになっていく。 イライラザラザラの伝染。 そのとき、メンバーのひとり、Kさんが、 文章を読んだ感想を、率直に、こう言った。 「あっ、痛てぇ! 痛てててて‥‥。これ、私のことだ。」 Kさんはつまり、 この文章で筆者が指摘している現代の若者の問題、 それはズバリ自分のことだと、 自分のことをグサリと筆者から指摘されてしまった、 「痛いとこ突かれたなあ!」と 言ったのだ。 瞬間、それまでざらついていた空気が、 さぁーーっと一気に澄み渡り、 メンバーたちの顔からハテナマークは吹っ飛び、 笑顔さえ出た。 「そうそう」と共感がわきでた。 Kさんの言葉は伝わった。 それまでしまりの悪い蛇口のように、 ぐちぐちと口数が多かった私は、 その瞬間、水をかけられたように、ひやっと押し黙った。 次の瞬間、恥ずかしさが込み上げた。 また次の瞬間、Kさんのかっこよさがしみた。 筆者にズバリ痛いとこ突かれたのは、私だった。 だが、Kさんは自覚し、私は無自覚だった。 無自覚なまま、私は、 文章に自分が攻撃されたように感じていたのだ。 自覚していれば、受け入れたり、考えたりできる。 でも、無自覚だから、それができない。 そこで、無意識のうちに、 私は、筆者個人をあげつらい、こきおろし、 相手の攻撃を無にしようと奔走していた。 先週紹介した、小池龍之介さんの講演で言うと、 人は何かを忘れるとき、 その情報を体から抜き去るのではない。 まるでシュレッダーにかけるように その情報をバラバラにし、 人間が認知できない情報に改ざんしてしまう。 その、体の中にまだ残っている バラバラになった「忘れたいこと」が、 ある刺激を受けるとイライラザラザラ暴れはじめる。 こういう状態になると、 なんでもいいから文句をつけたくなる。 たとえば会社で、 愚鈍な後輩を叱りつけている。 本人は、後輩が悪いからだと思っているが、 実は、無意識のザラザラが無条件にさせているのであって、 もし、ちょうどそのときに後輩が居なかったら、 その人は別の人に対して怒る。 もし、別の人もいなかったら、 たとえば、そのとき蝉が鳴いていたら、 ウルサイ蝉だと蝉に対して怒る。 そんなふうに人は、無意識で波立つものに抗えない。 唯一、自分はどんな刺激でザラザラするか、 ザラザラの正体は何か、ザラザラがおきたとき、 自分は人に対してどんな行動をとってしまうか、 自分のパターンを自覚することによってのみ、 対抗できるのだ。 これは、文章教育に照らしても納得できる。 書き手の根っこにある思いは、 言葉で書かなくても、読み手には感じとられてしまう。 私は、筆者の文章に攻撃されたように感じた。 だがそれを自覚できず次々と会議で発言をくりだす。 すると、メンバーに伝わっているのは、 私の心根の苛立ち・いまいましさ・了見の狭さ、 これでは、メンバーが私の発言のほうにこそ、 違和感を持つのもあたりまえだ。 そしてKさんの言葉で、 「違和感の正体=筆者から攻撃されたように感じた」 が自覚できたとき、その感情はまだあるにもかかわらず、 心は凪のようにピタッと静まった。 “違和感はどこからくるか?” 先日、生徒さんの文章を読んでいた。 一読して、私には違和感がある。 とたんに心はモヤモヤザラザラしはじめた。 読み返したり、違和感がある部分を、 わかりやすい表現に自分で書き換えたりしているうちに、 違和感の正体がはっきりした。 主語を曖昧にしているため、 短い文章に複数の主語が混在している。 しかも本人は気がつかない、 そのため事実関係があやふやになってしまっている。 この生徒さんには、主語を明確にして書く、 それによって事実関係を明確にするトレーニングを してもらうようにした。 それを生徒さんに告げるとき、 厳しいことを言っているにもかかわらず。 私の心は、凪のようにおだやかだった。 すこしも心にザラザラがない。 心根と一致した言葉は生徒さんにも伝わり、 なにか清清しく、おたがいしっかりと 通じ合うことができた。 違和感はわいたときには、 心がザラついてしょうがないが、 正体がわかったとき、それまでがうそのように、 ピタッと心が凪になる。 “違和感はどこからくるか?” 原因は私にある場合もあるし、相手にある場合もある。 可能性としては五分と五分。 両方に原因があるときもあるのだろう。 感じた「違和感」は大事だ。 それを機に考えれば、 自分や相手の根本に迫る理解ができる。 ただ、違和感、そのままぶつけても、 人の心を打つテーマにはならない。 違和感をもちつづけ、考え続け、 ある日はらりと、その正体が見えたとき、 それは、人に伝わるテーマになる。 相手に厳しいことを言っていても、 心に平和があれば、素直に言葉は受け取られていくし、 逆に、表面上もっともらしいことを言っていても、 心がイライラザラザラしていた私の発言は ちっとも会議で伝わらなかった。 イライラザラザラの状態で、 何か言っても、ろくなことはないな。 無自覚だから、どんな傷つけ方をするか 自分でも加減がわからないし、 相手に伝わる心根は、 やはり、イライラザラザラとした不快感だ。 自分の思わぬ小ささを露呈することにもなる。 「違和感がある」を理由に個人攻撃に向かうとき、 そんなときは、 原因はあっちにあるかもしれない、 でも、もしかしたら自分のなかにあるかもしれない、 と立ち止まってみよう。 そんなときは、いったん発言スイッチを切って、 自分の違和感とじっくり交信していこう。 いつかやがて、知恵の輪がハラリとほどけるように、 「ああ、そうか!」正体をつかむ日がくる。 その爽快感は格別だ! そのとき、発言スイッチをオンにしよう。 |
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2010-09-29-WED
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