YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson530
       「ひらく」とはどうすることか?
       ーーー 5.持続可能な身投げ


「ひらく」とは、
自分の枠組みの外に踏み出す行為、
とてつもない不安が直撃する。

私の過去2回の経験でも、
命こそとられなかったものの、
自分の限界突破、
アイデンティティが生きるか死ぬかの、
ほんとに、しんどいことだった。

先週、病院職員の読者から、

生きるか死ぬかの瀬戸際のような身投げ、
限界突破に失敗して、それ以降、
心を閉ざしてしまう人を多く見ている。
もう少し「持続可能な身投げ」の道も
あるんじゃないか。
(読者 上田さんからのメール)


との意見をいただいた。

たしかに、日々コツコツと、
小さくひらくトレーニングを積んでいれば、
突然、異世界が迫ってきたとき、
生きるか死ぬかにはならないわけだ。

でも、
「ひらく」が自分の枠組みの外に出る行為なら、
ちいさな自分の枠組みのなかで、
あれこれ画策し、備えていても、
「外」へ出たとたん、まったく通用しない、
「外」へ出るとはそういうことだ、
なんてことも充分考えられる。

「持続可能な身投げ」はあるのか?

読者からいただいた2通のおたよりを
紹介しつつ、考えてみたい。


<むき身になるレッスン>

ひらくとは、
その先にはなにがあるのか?

ひらいた身体とは自分の一番自然な状態ではないか、
と思っています。
ひらくとは自分の自然な状態であること。
そして、その自然な状態で、
「ここに在る」ことだと思います。

ズーニーさんが2度の経験から描写した
「ひらく」ということを考えてみました。


 生命の死ではない。
 経験の死。
 個性の死。
 意志の死。
 社会的死。

 アイデンティティの死。

 自分がいままでやってきたことは、
 意味が無かったのだろうか?


作家の角田光代さんの
旅先三日目というエッセイがあります。


 仕事・家・友・約束・銀行口座・名前・年齢
 実際私たちはそうしたものを背負って
 日々よろよろと暮らしていて、
 ひとつでも失うとなんとはなしに不安になる。
 けれど実際のところ、本当には、
 私はなんにも持っていないんじゃないか。
 持っている気になっているものすべては、
 思いこみとか、一時的に預かっている
 何かなんじゃないか。
 そのことを忘れそうになると、
 私はいつもあわてて旅に出る。
 旅先三日目のあの
 空っぽの気分を思い出すために。


ズーニーさんの経験した「瀕死の喪失感」と
角田さんのいう旅先での「爽快な喪失感」と
どこか似たようなものがあるように思われます。

経験や、自分が思っている自分や、
社会的な地位や、家や、どうにもならない状況や、
(自分+α)というものを
普段は(自分)だと思い込んでいるのかもしれません。

ズーニーさんのように居場所を追われたり、
あるいは旅に出ると、
(+α)の部分がひっぺがされて
(自分)というものに否応なく対面することになる。

(+α)への依存が強ければ強いほど、
喪失感も大きくなる。

ひらくとは、(+α)への依存から
解放されることかもしれません。
(+α)は好ましいものばかりではなく、
時には嫉妬であったり、後悔であったり、
借金であったりするかもしれない。

そういうものから自分の意志で解放されること、
そのことがひらくということだと、私は思っています。

何にも持っていない自分、何も持ち得ない自分となって、
空っぽの自分の中からそれでも湧き上がってくるもの、
それを(信じて)こつこつと書き溜めていったら、
ひらいた自分に出会えるように思います。

そして、ひらいた先には
世界がありのままの姿で大きく手を広げて待っている
のではないか、と思います。

その世界にただ「在る」自分になったからこそ、
ズーニーさんは「あなた」と
出会うことができたのではないでしょうか?
(いずみ)



私は旅が好きで、
多いときには年に2回も、3回も、
海外旅行に行っていた。

それが、会社を辞めた2000年を境に、
ぱったり行かなくなった。
不思議でならなかった。

「あんなに行ってた
 旅に行かなくなったのはなぜだろう?」

「東京にいるのに、
 旅をしている気がするのは
 なぜだろう?」

つい最近わかった。

「旅とは、自分の居場所を離れる行為」
なのだ。

2000年からの数年は、
所属も肩書きも職も失い、つまり、

居場所をなくした自分にとって、
もう、生きること自体が「旅」だったと。

そう気づいた矢先の
「いずみさん」からのメールだったので、
とてもしっくり腑に落ちた。

2000年、私は、
仕事・仲間・年収・福利厚生・肩書き・会社
+αをすべてひっぺがされて
「むき身」になった。

それはいいことだった。

原稿を書いたり、
ライブで講演や講義をして、
人前で表現をしているとよくわかるのだが、

+αをかざしても決して人の心は動かない。

表現者がもし、
「私の作品は100万部突破です。
 文学最優秀賞も受賞しています。
 文筆業は経験50年の大ベテランです」と
+αを持ち出して、それで勝負しようとするなら、
とたんに受け手は引いてしまう。

経験も、実績も、
はりつけてきたものを全部とりさって、
むき身の人間になって、
言葉を発し、

それが面白いか、面白くないか。

ただそれだけに
受け手は残酷なほど、はっきりと反応する。

表現する人なら、
日々知らずに自分がはりつけてしまったものを
なんとか脱ごう脱ごうとするはずだ。

岡本太郎さんが、
肩書きや地位や名誉を積み上げるんじゃなくて、
人生、「積み減らし」と言ったように。

未知の世界に「ひらく」とき、

肩書きや、実績や、数字や、地位や、名誉や、
+αに依存していればいるほど、
+αを捨てきれず、+αを持ち出して勝負しようとし、
+αがまったく通じない「外」で、
適応が遅れてしまう。

ひらくためには、
あれこれ身につけて備えるんじゃなくて、
その気になればいつでも+αを捨てられるようにしておく、
+αから自由になっておくという、
いずみさんの方向性は、
たいへん納得できる。

もうひとり、
以前、「シェアハウスで結婚するシリーズ」をやったとき、
「Lesson502 ひらいた身体 3」に登場した
読者の「カズママ」さんからもお便りが来た。

彼女は、以前、自分の意志で
夫の家族と同居する道を選んだ理由を、
こう言っていた。以前のメールをかいつまんで紹介すると、


生後4ヵ月の息子をもつ専業主婦です。

主人の家族とは同居か? 別居か?
という選択を、迫られました。

主人は3人兄弟の次男なのですが、障害をもった兄がおり、
彼の将来の為にも一緒に暮らして欲しいと、
主人と主人の両親からお願いをされました。

だけど、最終的に決めるのは、あなたでいいと
選択肢をくれました。

お義兄さんの為にしてあげる同居とは
思いたくなかったので、
自分とよく相談しました。

まわりの友人や、会社の上司は
『同居は嫁がかわいそう。
 ましてやお兄さんのお世話まで‥‥』
『99%同居はうまくいかない』
などとみんな同居に大反対でした。

なんとなく、現在の核家族化の流れにのっかって、
別居がいいかなぁと思ったり、
学生の頃から一人暮らしをしてきたし、
みんなと合わせる自信ないなぁと思うこともありました。

でも考えるうちに、自分の気持ちの片隅から、じわじわと、
『同居したい』という思いが湧き出てきました。

今一番必要なことは、
産まれてくる赤ちゃんが育つ環境だなと感じたからです。

たくさんの人がいる家庭で、たくさんの考え方、
性格があります。それに触れてほしい。
そんな環境に歓迎してくれているのは、
ありがたい事だ、と。

人とのふれあいは、尊いものだと思います。

それが大きくなって、社会になるのですから。
(カズママ)



あれから半年、
夫の家族と、9人の大所帯で暮らす「カズママ」さんは、
この一連の「ひらく」をどう見ているだろうか?


<ひらいた身体>

こんばんは。
以前、ひらいた身体におたよりしました、
同居中で主婦のカズママと言います。
どうしても気持ちを伝えたく、
またおたよりをさせていただきました。

ずっと考えていたんです!
やっと今日、答えが見えました!

9人家族で暮らす私にとっての「ひらく」とは?

日々の生活の中で思いました。
私にとっての「ひらく」とは、
「他を認め、共に生きる力」ではないかと。

毎日、個性的な家族と暮らしていて見つけた答えです。

「自分も他人も受容する」ことが大切なんだと思いました。

極端な例で言うと、社会で言われる障害というものは、
障害ではなく、ただの本人であるということ。
それは、高齢者も、子供も同じ。
恥ずかしながら、最近それに気付きました。

だけど、それに嫌悪感をもつ。
それもまた認めて(閉じたり)そうしながらも
その人自身を認めて(開いたりして)関わっていく。

それができるとホントに自由だと思います。

バリアフリーってそういう事だと思いました。

ありがとうございます。
やっと気持ちが重なりました。
まだまだ未熟ですが、
これからも学び共に生きていきます!
(カズママ)



カズママが以前投稿してくれた、
「シェアハウスで結婚するシリーズ」を書く
きっかけとなったAさんに、先日、道でばったり会った。

Aさんは、30代半ばにして、
女性10人とシェアハウスに住み始めた。
それも、友人や親戚ではない、赤の他人とだ。

動機は、一言で言って自己教育。

将来は結婚したいと考えたAさんは、
このまま一人暮らしを続けるのはよくないと思い立ち、
自分の意志で、10人との生活に飛び込んでいった。
(詳しくは、Lesson500 ひらいた身体1
 見てほしい。)

社会に出て十数年、経済的にも自立し、
きままな一人暮らしをやってきた人が、

洗濯機も冷蔵庫もキッチンも風呂も共同の、
10人暮らしに、とくに必要にせまられないで
飛び込んでいくのは、勇気が要ったはずだ。

結果、Aさんは、
良きパートナーと出逢って、近々ほんとに結婚する。

私がバッタリ合ったその日も、
旦那さんになる人と、
新居を見に行った帰りとのことだった。

Aさんも、カズママさんも、
家の中に「外」がある。

人が社会的なよろいを脱ぎ捨て、
もっとも自然体の自分に戻る場所に、

自分とは、育ち方も、血も、生活習慣も、好みも、
まったくちがった「他人」がいる。

それも、すぐリビングまで、
同じお風呂を使い、同じトイレを使う。

日々、ちいさく手放さないとやっていけない。

ちいさいけれど1年365日になると、
そうとう大きく手放し、
未知の世界を引き受けたことになる。

折に触れ、
自分が積み上げてきたものを
ごっそりと積み減らすような時間を持つか。

生活のなかに、
毎日、ちいさく、かわいく、きっちりと
「外」を受け入れていくか。

どちらもラクではないが、
いざひらくときに基礎になる、
持続可能な身投げだと私は思う。

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2011-03-02-WED
YAMADA
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