おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson536 ひと月ぶりに「買い物」の話をします ー 情報を纏う人たち2 きょうは、 3月9日の「Lesson531 情報を纏う人たち」に 寄せられた読者メールから、 「買い物」について、 「私たちが、本当に好きなものに たどり着くにはどうしたらいいか?」 考えていきたいとおもいます。 もちろん震災後のわたしたちに直結したテーマは、 先週同様、今後も、機会をとらえて考えていきます。 しかし、励ましであれ、有益な情報であれ、 それは四六時中、同じテーマを 突きつけ続け、突きつけられ続けること、 それもまた苦しいことであります。 ささやかでも、別のテーマに羽ばたけること。 そういう瞬間も、また現実にもどったとき、 力をくれる瞬間のひとつではないかと考えます。 まず、このコーナーでおなじみとなった、 読者の高校生、「ドレミくん」の 「Lesson531 情報を纏う人たち」 に寄せられたおたよりからお読みください。 <いとも簡単に、生とは違う魅力を伝えてしまう> こんにちは。ドレミです。 「情報を纏う人たち」についても悩みに悩みながら 意見を送らせていただきます。 僕は、創り手のプライドについて考えました。 例えば、ライブをCDに録音する場合、 生の演奏の魅力をどうやってこのCDに収めるか、 ということをするものだと思います。 けれど、CDから聴こえる音は、 生演奏の音とはほど遠いのが実情です。 ホール内の空気の揺れはCDからは伝わりませんし。 このように、ワンクッションが 「生の魅力」を伝えきれない現状があるなか、 山田ズーニー先生のお母さんが見たような広告は、 いとも簡単に「生とは違う魅力」を 伝えてしまうように思います。 もしも、その広告に載っている商品が 自信を持って創られたものならば、 その魅力を広告に載せようとすると思います。 しかし、例えば、 『他に出回っている高級な商品と比べても見劣りしない様な 見栄えを低価格で広告に載せたかった』 とか、売る為の手段を考えるなら、 可笑しい話になってしまいます。 やはり、自信を持って商品を創り、 ありのままの魅力を伝えるワンクッションが僕は好きです。 (ドレミ) つくり手の根本思想が、 「他に出回っている高級品と比べて、 見劣りしない見栄えを、低価格で広告に載せました」 というのは、鋭いなあ。 「低価格」という情報が、 いつしか、私たちが纏っている情報のなかで 首位を占めてしまっている。 ネットの店長は言う。 <ネットに出店してわかったこと> 私は大手モールに出店しているものです。 はや1年が過ぎましたが、 こうやって1年過ぎてやっと色んなことが見えてきました。 ネットの中で独自でやっていくのは大変だろうと、 国内で最大の大手モールに出店を決めたのですが、 やはり売れるのは激安なものばかりです。 良いモノを売りたい、と思っても なかなか難しいことばかりです。 売上がなくて苦しむ私に ネットで高い売上をたたき出している店長さんが 教えてくれました。 売る商材はイイものでなくてもいいんだ。 肝心なのは売り方なんだよ、って。 良いモノ=売れる こういう式は成り立っていないと思います。 値段も検索できますので、 より安く買えてしまうショップさんに お客さんが行ってしまうのは 仕方のない事なんでしょう。 商品を安く出しても ライバル店にすぐ値段を下げられてしまいますから‥‥ ホームページもお金をかければ キレイな写真に見やすいレイアウトを 業者さんがやってくれますが、 私のように資金もなく、 すべて自分で一からやっているショップは なかなかお客様には来て頂けないのが現状なんです。 (ショップ2年目の店長) <低価格 ≠ 求める価値に見合う値段> 本当に好きなものにたどり着くには それに見合うお金を出す覚悟をする ということだと私は思います。 「値段は正直!」 手ごろな値段というところが曲者。 お求めになりたいのはおそらく 丁寧な仕事がなされている品物ですよね? 「丁寧な仕事」「こった仕事」はコストそのもの。 今回は 手ごろな値段≠自分の求める商品価値に見合った値段 ということにでしょう。 消費者が買いたいと思う値段と 販売者が売りたいと思う値段には かい離があります。 消費者は安くないと買いません(買えません)から、 当然価格は消費者が飛びつく価格に近付けた 販売価格に設定されます。 ということは 当然デザイン重視で 材料や工賃がカットされていくということです。 安いものが出回り、それで購買欲求が満たされれば 割高なものは売り場から駆逐されてしまい、 ますますいいものを探すのが難しくなります。 今、日本の伝統工芸産業が後継者不足で 職人存続の危機だそうです。 安ものが出回っているせいで、 そこそこいいものがなかなか売れない時代なんだそうです。 (人間国宝級の超高級品の類や有名作家ものは 別格らしいですが、 産業を下支えしている職人さんたちのものが 売れていない) つまり、 いいものでも割高なら 手に取ってもらえない、買ってもらえない ↓ 給料が仕事にみあわない ↓ 職人さんたちがたべていけないのでやめる ↓ 職人不足で技術の衰退 ↓ 日本の伝統文化や産業の衰退 そして、この問題を、考え始めると フェアトレード(公正な貿易)の問題も 考えないといけなくなりそうですね。 そろそろ私もいい歳になってきましたし、 「安い」だけを理由にものを選ぶことから 卒業しないといけないなとおもっていたところです。 (OKADA) <これじゃない。あれよ> 写真でみたのと実物が違う、例えば、 ファーストフードの新商品を注文したら、 雑な作りのものが出てきた、 なんていうのも経験があります。 「これじゃない。あれよ」 そう思ううちにこちらが諦めるのか 出てくるもので納得するようになりました。 それでも折れないお客様がいるのでしょうね、 以前より[写真と実物は見た目が違う事があります] の但し書きが増えたように思います。 「これじゃない。あれよ」 何だか、子どもみたいだな、と感じましたが、 そう感じるのも欲がある事だと、生きている事だと。 (尾西36) <期待は、目の前のものを排除する> 期待していると、理想のものには出会えない。 それはもう自分の頭の中でできている物と、 少しでも違うと排除してしまうから。 (ひろこ) <まとった情報で買う気にさせられている商品より> 今回のテーマは、ここ数年、 私が感じている違和感にとても近い部分に ふれている感じです。 今、私は、引っ越しの準備をしています。 もともと物を捨てるのが嫌いなので、できるだけ捨てずに、 でも物は減らして整理はしないといけないという状況です。 捨てずに手放すためには、 まずリサイクルショップに売る、ということを考えます。 売ってお金がほしいわけではなく、ゴミになるよりは、 誰かに使ってもらったら気が楽だと思うからです。 けれど、そんな考えを友人に伝えたら 「私は中途半端なものが グルグルとまわっているほうが嫌だから、 リサイクルにはださない」 と言われました。 その友人は、鞄を作るプロとして 生きていくことを目指しているので 「よりよい物を作りたい」とか 「よりよい物が、商品として出回っていてほしい」 という気持ちが人一倍つよいのです。 私は、今もっている物を手放す苦労の中で、 「つまり、本当に良いと思うものしか 買わなければいいんだ」 という答えを出しつつあります。 それがズーニーさんの 「本当に好きなものにたどり着くにはどうしたら?」 の問いにつながります。 ファストファッションについて触れられていますが どんどん新しいものを欲しくさせる世の中のしくみ、 みたいなものに (それが情報を繕うということだと思いますが) 嫌気がさしています。 安くて、でも流行で、流行だから飽きるのも早いけど、 質はよくないから、 ちょうどよく早く駄目になって、捨てる、繰り返し。 私の思う、本当に好きなものにたどり着く方法は 自分と物との関係を 大切に選ぶことなような気がしています。 たくさん、まとった情報で 「欲しい気持ちにさせられている」ものではなくて 物ができるまでのストーリーもふくめて、触れて、確かめて 納得したものだけを買うこと。 そんなことをしているとなかなか物が買えませんが、 好きなものにたどりつくのは、 簡単じゃなくていいのだと思います。 (mame) 1年前のある日、 近所の店の前を通ると、 私を呼んでいるかのようなバックが 目にとまった。 まだ開店前のショウ・ウインド。 値札をのぞきこむと、 ねだんもてごろ。 即、買おうと決め、夕方また店に行き、 「あのバッグ見せてください!」と はりきって言った。 すると店員さんが、 わざわざ白い手袋をはめだした。 わたしはすぐ気がついた。 値段を1ケタまちがっていたことに。 さっと血の気がひいた。 値段をまちがえましたと店員さんに言う勇気がない。 平気なふりをしながら、ドギマギして、 私は、バッグをみるふりをはじめた。 「いい‥‥!」 オロオロしながらも、手に取った一瞬にして、 いい! とわかった。 皮の感じも、 チャックの金具も、 こったつくりのチャームも、 肩かけ用のベルトも、 なにもかも。 店員さんは、鏡の前でかけてみろと言い、 めっそうもないと固まっていると、 店員さんが、バッグをナナメがけしてくれた。 オロオロしている内面とうらはらに、 鏡にうつった私は、とても楽しそうだった。 思っていた10倍の値段が グワングワン頭をめぐりながらも、 自分がバッグに抱いたこの気持ちを、 値段に負けて捨ててしまうのは、 なにか、とても、 「自分を損なう」 それだけは、はっきりと、強く感じた。 私は、必死の思いでバッグを買った。 不思議なことに、 私の着るものや持ち物をめったに褒めない友人も、 なぜかそのバッグだけは褒めてくれる。 バッグに関心のない男性からも。 ほぼ、持つたびに声をかけられる。 決して万人ウケするものではない。 だから、褒めたほうも、褒められたほうも、 一瞬にして、ピーン!と響き合うものがある。 互いが互いを認め合い、通じ合っている。 もしも、値段という情報に負けていたら、 そんな瞬間もすべて手放していた。 「情報」で考えていくと、 大きさなどの「サイズ」も、 ポケットや仕切りの少ない「機能」も、 着る服を選ぶ「柄」も、 もちろん「値段」も、 いろいろと不便はある。 でも自分が持っている、それだけで、心がはずむ。 あのとき、私は、 カカクでなく、何を優先させたんだろう? 読者の3人は言う。 <「それ自体」を五感で感じること> 24歳男性です。 僕はビートルズが好きで、 飽きることなくすべてのアルバムを繰り返し聴きこみ、 今では生活のBGMになっています。 しかし十代の時に聴き始めた、 いわばビギナーリスナーだったときに、 彼らの楽曲そのものを聴いてどう感じるか、 よりも他人が発信した「情報」を仕入れることから 入ってしまうことがありました。 ビートルズほどのミュージシャンになれば、 全アルバムに収録されている全曲について 解説した本が結構たくさんあります。 ビギナーリスナーだった僕は、 アルバムを聴く前にそうした解説本を読み、 評論家がその曲について述べている持論、 聴き所などの「情報」をインプットし、 それからはじめてアルバムを聴くということを していたのです。 それで自分はいっぱしのビートルズ通になった気が していました。 しかしそれはなんということはない、 つまり当時の僕はビートルズを鑑賞していたのではなく、 数多の評論家の発信した「情報」を鵜呑みにし、 楽曲を聴いた後で それらを答え合わせしていただけだったのです。 五感ではなく、あたま(情報)で 楽曲を聴いていただけともいえます。 しかしビートルズを聴き込んでいくうちに、 世間では酷評されている曲が自分にとっては心地よく響き、 あるいは名曲というレッテルを貼られている曲が 大して印象に残らないということを たびたび感じるようになりました。 他人から仕入れた「情報」と自分の感覚の間に 差異があることを自覚したのです。 そのとき、自分がいかにリスナーとして 本末転倒な聴き方をしていたのかを痛感し、 そのことを恥じりました。 その経験を経て、今の僕は何かを鑑賞するときには、 情報を仕入れるより先にまず、 そのもの「それ自体」にあたり、 そのときに自分の五感を通じて感じた心の動きを 大切にしようと考えるようになりました。 巷に氾濫する「情報」に踊らされないよう、 「それ自体」から自分が何を感じ取るか。 五感を研ぎ澄まそうと思うこのごろです。 (プッタネスカ) <情報に牛耳られ、自然の皮膚感覚を失い> 体調を壊し、自分の時間を持てるようになってきて、 周りの人々がロボットのように見えるように なってきました。 自分がいいからではなく、誰々さんがいいと言うから。 本人が望んで誰々さんの 言い分に従っているのならばいいのですが、 何か違うような気もします。 顔つきがみんな殺気だっています。 ゲームから抜け出せなくて (抜け出したら社会から脱落という事でしょうが)、 イライラしているようです。 皆、息抜きさえ勝ち負けゲームのように なっているようです。 貨幣社会の行き詰まりなのか、 皮膚感覚もない人々が 多くなってきているような気がします。 ズーニーさんのお母様が想像されたバッグが、 私には見えました。 でもそれは、自然を知らない、 ロボットのような人間には作れないものだと思います。 (SK) <「違う」の正体> 「情報をまとっている」って表現、すごいなぁ。 でも、多かれ少なかれ、みんな感じてるのかもなぁ。 本当に好きなものにたどりつくには‥‥。 ぼくは「物語」というものが一つの鍵になるかと思います。 「もの」が作られた、 あるいは売られた背景や理念、経緯という「物語」 その物語と、(やはり)デザインに 「いいな」と感じることが、 本当に好きなものに出会う入り口。 ただ、その物語を詳しく知ろうとすると、 骨の折れることかもしれない。 でも、その物語はそもそも「もの」に 表現されてるはずなんですよ。 今回のコラムに出てきたバッグが、 どういう物語をとおして存在しているのかは 知る術がないのですが、 ズーニーさんと母上が、実際に見て、 一瞬にして「ちがう」と直観されたのは、 「このバッグに表現されてる物語はおかしい」、 と感じたからではないでしょうか。 (熊本の青い人27) 「この商品に表現されてる物語はおかしい」 この一言に、 わたしがこれまで、 色も、サイズも、使いやすい機能も、手頃な価格も、 すべて事前情報どうりなのに、 届いて手にとった瞬間、 「あれっ!」 なにかが決定的にちがうと、 一瞬にして、自分が意外なほどに、 打撃を受け、喪失を感じ、消沈している 理由が腑に落ちた気がした。 「表現されている物語がずれている」 「他に出回っている高級品と比べて、 見劣りしない見栄えを、低価格で広告に載せました」 というのは、 商品そのもの中でも、物語がねじれ、ずれている。 その物語は、 地道でもコツコツと、田んぼに一本ずつ苗を植えるように、 一つ一つ言葉を紡いで、文章を書いてきた 私自身の、人生の物語ともずれている。 もちろん、洋裁・和裁から出発して 丁寧な手仕事をしてきた母の物語とも致命的にずれている。 私に痛みを与えつつも、 十倍の値段を絞り出させたバッグと、 私の物語は、その瞬間、響き合っていたのだ。 そして万人ウケしなくても、 私のそんな物語を良いと共鳴してくれる人とだけ、 出逢わせてくれた。 物語は商品に表現されていた。 それはめったにない。 今のがしたら、次いつ会えるかというような、 自分と共鳴する物語を持ったモノとの出逢いだった。 自己の物語を表現してくれる モノとの出逢いだった。 |
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2011-04-13-WED
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