YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson584  仕事の選択 10


「医療・福祉・教育の立ち位置とは?」

きょうは、上記の問いにしぼって
読者メールを紹介します。

これまで、

ありのままとはなにか?
だれによしと言われたら満足か?
2週にわけてメールを紹介してきましたが、

とにかく、読者メールがすさまじく、いい!

とくに先週、
2番目に紹介したM.Mさん
には、
「感動した」、「揺さぶられた」と、
おおきな反響が寄せられました。

医療・福祉・教育も、
「ありのまま」という
読者大注目のキーワードを通して、
もう1度見たとき、
ふだん見えない側面が見えてきます。

この3回は、
「メールごと」ではなく、
「3つの問いごと」に、
読者の見解を抽出して紹介しています。

よって、
すでに紹介したメールが
重複して掲載されている箇所があることを
ご了承ください。

「仕事の選択6」で、
私は次のように書きました。

>「医療」と、「福祉」と、「教育」。
>3つは似ているようで、全然ちがう。

>そこに病気がある限り、
>「治そう」とするのが医療だ。

>一方、病気の人が病気をかかえたまま、
>いわば、ありのままに、
>地域や社会にとけこんで、
>その人らしく生きるのを「支援」するのが福祉だ。

>教育は、つねに「その先」へ導くのが仕事だ。
     (山田ズーニー「仕事の選択6」

これを受け、
ありのままの考察を経ての、
読者メールを一気にお読みください。


<立ち位置を数字で表すと>

3つの関係を、自分で消化したとき、
次のような表現を思いつきました。
医療: 治す   (マイナスをゼロにする)
福祉: 支援する (マイナスでよい状態を作る)
教育: 導く   (ゼロをプラスにする)
(池田)


<私がやりたかったのは福祉だ!>

小さいころのあこがれだった保育園を四年で辞め、
今は学童クラブにいます。

保育園は区分では福祉なのですが、
実際現場で求められていたのは教育でした。

違和感もあるし器用にも出来ない私に、
職場で何度も
「あなたのままでいいんだから、自信をもって」
と言われました。

そのうちに、いつのまにか、
私の相手は子どもたちではなく、
周りの先輩、同僚になりました。

対象がずれていて上手くいくはずもなく、
焦ってミスをし、自身を見せなきゃと偽りの自分になり‥‥
どんどん悪循環でした。
しかも当時はそれが何なのか、分かっていなかったのです。
言葉にもできず、駄目な自分を責める毎日でした。

ただ、その中でも、保育園と兼任しながらも
学童クラブの担任になった年があったのです。
初めて子どもたちに必死になれた年でした。

そうか! 私は福祉がやりたかったんだ!

ズーニーさんに言われて気づきました。
学童クラブは保育園と違い、福祉だったのです。
両親共働きの子たちが学校から帰って遊んだり
ほっとできる場所、それが 学童です。

辞めた後、私が自然と探したのは、
専任の学童クラブ職員でした。

その子達の能力を伸ばすことが仕事じゃない。
ただ、安全以外、何もしないわけではないです。
その子が持ってる良さを認めたい。
周りがその良さをいいねと言える環境を作りたい。
もし、その子が伸びたいと思えるものがあったら、
その時に、その気持ちに寄り添いたい。
そう思って日々過ごしています。

今、私は前職を辞めてよかったと思っています。
今の職場だからこそ、
自分の伸びしろを信じてあげられるから。
ありのままで良いなんて、
日々成長している子どもたちには言えません。
それよりも、それぞれが持ってる伸びしろを、
「いいね!!!」って認めてあげたいのです。
(さんご)


<福祉の現場に教育もある!>

私は「自立支援法」にのっとった作業所で働いています。
職員ではなく「利用者」です。

完全に「福祉」の場のようで「教育」があります。

例えば、昨日まで使えなかったペンチを
使えるように練習すること。
うまく取り付けられなかった部品を
取り付けられるように工夫すること。
作業に集中するためには、
まず姿勢から‥‥ということもあります。

職員がやっているのは「福祉」と同時に「教育」です。
「ありのまま」を認めつつも、
少しでも「前進」するように、
無理のない範囲で指導する職員の皆さんの
根気強さは本当にすごいです。
(yuu)


<教育と医療>

「ありのまま」と言ったときには、
一般的に2つの意味合いが含まれるのだと思います。

1.なにも頑張らなくても良い「ありのまま」
2.その人本来のかたちである「ありのまま」

序列ではなく、必要とされるシーンが違うということで、
1は医療が、2は教育が担当するのだと考えます。
(白井哲夫)


<冒険に押し出すベース>

「ありのまま」とは自分のベースのこと。
安心して帰る家がある。
失敗してもいいと思える。

家があって、失敗してもいいと思えて、
じゃあ冒険しますかと思える。

人に冒険を求めるなら、
まずはその人の戻るべき家を確保してあげないと。

医療:家を建て直す
福祉:家を補強する
教育:家から外に連れ出す

会社で後輩の教育に悩んでいたけど、何かつかめました。
(Hiro)


<三つともゴールをまちがえば>

教育であっても、医療であっても支援であっても、
『ダメな状態を改善してやる(すべきだ)』
という目線では、いけないと思います。

もっと健康な方がいい、もっと成績がいい方がいい、
もっと便利に暮らせる方がいい、というのは、
医療や教育や支援を施す側の理想像の押し付けに過ぎず、
誰かの作った、『みんな』が持っているらしい理想像を
追い求めて生きても、
決して満足することはないのだと思います。

幻想に過ぎない誰かの基準値とやらで
マイナス評価にさらされ続けた人は、
自分を受け入れにくい気持ちが育ってしまいます。

例えていうなら、
子供が物心ついた時から母親が病気がちだったとして、
その子にとっては、母親はそのままで完璧な母親なのに、
まわりが、『病気の母親を持って不憫な子供だ』と
刷り込み、母親は治療されなければ完璧な母親たりえない
というスタンスで追い詰めるようなことは、
誰の為にもならないということです。
(Qタロー)


<3つは並べて比べるのでなく>

「医療」「福祉」「教育」の持ち場が違うという点、
とても興味深く読み、
とてもよく理解できました。
その一方で、

「この3つの持ち場を分け、
 3つを並べて考える必要性はなんだったのだろう?」

という疑問がわきました。
というのも、私のなかでは、
何かを得るためにたどりつく、たとえば、
「医療」や「福祉」の恩恵を受けるために必要なものは、
それを理解し、たどりつくための

「教育」と考えていたからです。

医療の前に、
「予防」するための知識や技術を得ることもまた、
「教育」の力だと考えています。
このように「教育」を捉えていたため、
三つを並べて考えることに違和感を覚えたのだと思います。

この「教育」についての考え方は、
私が仕事で関わっている
インドの農村部の母子保健活動を通して
強く考えるようになりました。

今、多くの国、先進国・途上国ともに、
医療や福祉は充実してきていると思います。

一方で、その医療や福祉の恩恵を受けるための
手段や方法を駆使できない人が多い場合が
往々にしてあります。

私が活動している地域のお母さんの多くは、
幼稚園や小学校を出ておらず、
読んだり書いたりできない方が多い地域です。

お母さんたちにとって、
もしも書けていたら、読めていたら、
医療や福祉の恩恵を得ることや
生活がより豊かになることができたの!
ということがいくつもありました。

そのため、読み書きの力や
交渉するコミュニケーション力を得るための
教育の機会を得ることができなかったことを
本当に悔しがっていて、
彼女たちも学ぼうとしていますが、
同時に自分たちの子供には
可能な限り「教育」のチャンスをと望み、
お金をためています。

多くの国では、読み書きができない方のために、
ラジオやテレビ、歌などで
情報を周知する方法も使われていますが、
薬の飲み方が書かれたパッケージを
歌で読んでもらえることはないし、
字が読めないことが、時に命に関わることもあります。

そのため、私にとっての「教育」とは、
知識や技術を得る機会であり、
自分の命を守るための手段を増やす機会だと思っています。

そして、教育する側は、知識や技術の伝授をすると同時に、
それらを本人が深め、
使えられるよう(学習できるよう)
サポートする立場であると考えています。

そのためには、相手の状況を
いったん「ありのまま」受け入れ、
把握しなくては、
相手に合った教育方法を提供するのは難しいなと思います。

「教育」は、その一連のプロセスではないかと
思っています。
(玄米盆栽)


<生き死にに、教育は無力ではない>

生き残った次の瞬間から、
力になるのが「教育」です。
あるいは
死地に立った瞬間に生き残る道を見つけ出そうとする力も、
「教育」で身に着けてきたものと思っています。

私自身、精神的に生き残って、
先人たちからの“教え”を“育んだ”結果、
こんなことを考えるに至ってます。

さらに進んで、
生き残るための“その瞬間”の選択に必要なのも
教育の力だと思いました。

あの日、多くの人たちが高台を目指したのは
教育があったからではないでしょうか。
少なくとも本能ではないと思うのです。
「どちらを選べば生き残れる?」の選択ができるように
なるために、先人からの教えを育んできたと思うのです。

精神的な死地に立ったときも同様だったかと。
生き残るにはどっちに進めばいい?
ここから撤退をすることが自分の活路か?
動かないで生き永らえることはどの程度可能か?

一つの仕事の死を迎えようとしていたときに、
毎日自問していたのは、こんな感じだったかもしれません。

人の生き死にに教育は無力ではありません。
生き続けるために必要です。

よりよく生きるなんて素敵なレベルだけじゃなく、
ただ歯を食いしばって生きるようなレベルにも
必要なんです。

それを信じているからこそ、
教育に携わっていきたいと、
きっと山田さんも思っておいでなんだと心強く、
遠いけれど並んだ道のちょっと先を歩いている
先輩のように同志のように
勝手に思っています。
(moriko)


<生命との立ち位置>

「医療」は人間だけの特権であり、
他の生物なら、死を迎え終わってしまう生命を、
再びスタートラインに立たせてもらえる機会を
与えられます。

「福祉」は仲間から生命を守ってもらうこと。

「教育」は進化ではないでしょうか。
環境の変化に順応し、より有利に生き残るための。

生きている限り、次の瞬間に死ぬかも知れないという
不安を抱えて生きています。

そんな中で、「教育」というのは、
「それまでの自分」を変えてくれる力があります。
漠然とした不安を、自信に変えてくれるような。
(rikako)


<私の選択>

僕はこの春から社会人になりました。
男では珍しいと言われる栄養士です。

学生時代によく自分らしさと言うものを考えて
この職を選びました。
その時から自分によく問う質問があって

「したい事をしているか?」
「なりたいものに向かってるか?」
「諦めてないか?」
「そもそもそれになりたいのか?」

周囲にいる人達が、僕の為に、
いろいろ言ってくれたことには本当に感謝しています。
でも、その言葉は参考にしかならないものだと思ってます。

みんなの視点で見た僕はやっぱり一面でしかないので。

だから自分が問うのです。
今の職になった理由だっていっぱいあります。
本当の事言えば他にもしたい事があります。
理解してもらえない理由もあると思います。
みんなの方が正しい事もあります。

それでもこれが今の僕の答えです。
この答えこそ僕らしさです。

僕の自論は「積極的にミスした人ほど成功できる」です。
この選択がミスでも糧にして未来で成功できる。

自分らしさとは自分でしかわからない。

そして、仕事はどんな背景があっても
自分で選んだその時点で間違いはないと思います。
(有)


<医療と福祉と教育>

9歳の時に一生付き合っていかなければならない
疾病に罹患し、高校生の時に障害者の認定を受けました。

発症から20数年経った今、

20数年も付き合ってきながら、
未だに自分の病気を受け入れられないという、
弱い自分を受け入れることはできました。

でも、やっぱり
病気のカラダを受け入れることができないのです。

うっかりすれば、
「あぁ私も○○ができるカラダだったらなぁ」
「せめてこれができたらなぁ」
「健康だったらなぁ」
と絶対に叶わぬ願いが頭に浮かぶし、
随分とカラダに無理をさせているなと分かっていても、
行きたいところに行きたいし、
好きな人たちと一緒に笑っていたいのです。

カラダの声を大事にすれば、ココロが不満を言う。
ココロの声を大事にすれば、カラダが悲鳴をあげる。

「私」という人間はココロとカラダの両方でできていて、
どちらかを切り捨てることができません。

「選択」には2種類あります。

1つは、未だ手にしていない複数のものから、
どれを手にするかと選び取る選択。

もう1つは、既に手にしているもののうち、
どれを手放すかと腹を括る選択。

そして人を悩ませる「選択」の多くは、
後者ではなかろうか。

このコラムに登場した多くの人も、
何かを「選び取った」ように見えるけれども、
本当は「何を手放すか」という覚悟を決めた、
その結果自ずと手の中に入ってきた、

さらに、「受け入れる」とは、
何かを手放さざるを得ない、
そういう事実や事象を目の前にして、
その腹を括る、
そしてその向こう側へ自分を繋げていく、
という作業。

「ありのまま」の自分は、綺麗なだけではないはずです。
怠け者だったり底意地が悪かったり流されやすかったり。
そのことを認識すること自体は、
多くの方ができているのではないか。
難しいのは、そこから

その向こう側へ自分を繋げていく、ということ。

「認識して、はい、私はそういう人間でした、
 ちゃんちゃん。」
これは、「受け入れる」ではなくて「諦める」です。
ありのままを受け入れているように見せながら、
体よく諦めているだけなのです。

強い見栄を張っていたココロを手放して、
弱い自分のココロをこの先へなんとか繋いでいく、
ということはできそうなのに、

機能不全な自分のカラダにはその向こう側を見いだせない。

手放す腹を括る前に、
カラダがどんどん勝手に
機能を手放していってしまう。

私のありのままのカラダを、
周囲の方々は私以上に受け入れてくれています。
「無理しなくていいんだよ」、
「しんどかったら休んでいいんだよ」、

私のありのままのカラダを
誰よりも受け入れられていないのは、

私です。

自分の「ありのまま」を
どれほど他人が受け入れてくれたとしても、
「ありのまま」のその先へ自分を連れて行けるのは、
おそらく自分でしかないのです。

手放す腹を括ること、
括った先に、何かを選び取ること、
そして、

その先へと自分を繋いでいくこと。

弱っかしの私には、
まだまだ遠く遠くの灯台の灯りのようで、
なかなか手が届きません。

「手放さないですむように助けるのが医療」
「手放す腹を括るお手伝いをするのが福祉」
「その先で何かを選び取るお手伝いをするのが教育」

というのが、
医療・福祉・教育の全てを享受してきた私の見解です。
(M.M)



ズーニーです。

私は、これまで28年間、
教育は、命や安全が守られて、その上でできることだと
意識してきました。

今回、このシリーズで、
読者の投稿を読んで、
とくに、先週ほぼ全文・今週抜粋で紹介した
M.Mさんのメールに強く揺さぶられ、
改めて、気づかされたことがあります。

「先へ進みたい!」

というのは、衣食足りた人間の贅沢などでなく、
人間にとって、こんなに切なく、
こんなに根っこにぴたっと寄り添った
希求であるということです。

この切なる希求に目を背けては、
教育の仕事はスタートラインにも立てないのだ
ということを、このたび、
読者のメールに強く胸を揺さぶられ、
刻み込まれました。

ありのままとは? 教育とは?
次週水曜日に続きます。

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2012-04-18-WED
YAMADA
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