おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson704 ひらく鍵とざす鍵 ―4.読者メール紹介 ささやかに見えて、 人間1人が持っているネットワークは大きい。 たった1人を好きになり追って行ったつもりが、 つぎつぎ扉がひらくように世界が広がることもある。 逆に、たった1人を嫌い断絶したつもりが、 その人のネットワークごと断つことに‥‥、 なんてことも起こる。 ひらく鍵、とざす鍵。 きょうはこのおたよりから紹介しよう! <友人の答えはNOでした> ここ3週ぐらいの、「扉を開く」記事 身につまされる思いで読んでいます。 私には、ずっと嫌いな人がいます。 高校で知り合い、最初はそうでもなかったものの だんだんと苦手になり ちょっと周囲を巻き込んだ事件まで 起こしてしまったぐらい、 嫌いという気持ちを育ててしまいました。 卒業してからはまったく連絡など取らなかったので、 気持ちはやがて落ち着いていき、忘れていき。 しかし先日、偶然その人のSNSの記事を見つけてしまい ダメでした。全然ダメでした。 好きになるどころか、無関心にもなれませんでした。 たった数行の文章で、 どうしてこんなにいやな気持ちになれるんだろう、 ただただ嫌悪感が膨らんでいくばかりでした。 そのとき、すごく孤独で、 心細かったことを覚えています。 なぜこんな気持ちを味わうんだろう。 こんなことが許されるんだろう。 こんな気持ちになるのは、私だけなんだろうか。 その思いにつぶされそうになって、 つい、信頼できる友人に 「こんな記事おかしくない?」 とLINEを送っていました。 友人の答えは、NOでした。 客観的に見ればそこまでおかしな話ではない。 おそらくあなたがその人を嫌いな気持ちが 先に立っているよ、と。 その後いくらかのやり取りをしたら、 自分の気持ちに振り回されていることに 気付けたのですが、 友人にばっさり否定されたことで、 この嫌悪感は自分の問題だ、 とすぐ気付くことができたのが 大きかったと思います。 そのあとよく考えてもやはりその人のことは嫌いですが 真正面から向き合いすぎずに距離をとっているので もう少し前向きに落ち着いて 「嫌い」という気持ちに 向き合えるようになってきました。 そうしていると意外と、 悪口を言っている人がいても 気にならなくなるのが不思議です。 ひとを嫌う、というのは、 本来とても孤独なことだと思うのです。 だから、同意者を求めたり群れようとする。 けれど嫌いという気持ちをひとに分け与えても、 それはつながるのではなく、 孤独を増やすことにしかならないとも感じます。 ほんとうに誰かとつながりたいなら もっと別のアプローチがあるよなあ、 と感じるばかりです。 (とみんぐ) 私にはキライなタレントがいた。 テレビの番組表に、 そのタレントが載ってたら 絶対見ない。 知らずに見てた番組にその人が出てきたら、 秒殺でチャンネルを変える。 「きっと私のように嫌ってる人は多いはず。」 と信じて疑わなかった。 この夏、 ふるさとに帰り、母とテレビを見てたとき、 番組欄にこのタレントの名前を見つけ、 「私、〇○がキライじゃから見ん。」 と、とっさに母に言った。 ところが母の反応は、 意外なものだった。 「この人、けっこうええんよ。 おもしろいんよ‥‥」 うれしそうに、たのしそうに言うのだ。 私はなぜかわからず、ものすごく動揺し、 動揺しているのを母に悟られまいと、 あえてこの人が出てる番組に切り替えて見せた。 リモコンを持つ手が震えていた。 昔から、母の、 庶民感覚を代表し、ちょっと先いく感覚に、 リスペクトがあった。 母がいいといった芸能人はきまって売れ、 鳴り物入りで番組に登場した芸能人でも、 母がつまらんといえば、いつのまにか消えていた。 そんな母に、嫌いなタレントを良しと言われたときの、 みょうな動揺はなんだったのだろう? まず、「寂しさ」。 ある芸能人を好きか嫌いか、 そんだけのことに、グサッと寂しさを感じ、 次に 自分が「思いあがっていた」という気づき。 こんないやなタレントを こんなにたくさん出演させているテレビ局の人々も、 それをおもしろがって見てる人々も、 どこか一段下に見ていた自分がいた。 「でも実は、私の感覚こそが足りてないんじゃないか?」 そういうふうに揺らいだ。 でも、それらとはちがう、言葉にできない感覚もあった。 いくら母が良しと言ったとて、 そのタレントを好きになれようはずもなく、 私は、正体不明の動揺を抱えたまま東京に戻った。 それからが不思議なのだ。 気がつくと、このタレントが出てる番組を ふつうに見てる自分がいる。 2秒と我慢できなかった自分が、 5分、10分してやっと、 「どうしたの私?! こんな人が出てる番組を わざわざ見てるなんて‥‥」 と気づく。 この繰り返しなのだ。 毛嫌いして避けてきた人物を、 こんどは、知らず知らずのうちに、 観ようとしている自分がいる。 いまだにこの現象の正体が解明できないのだが、 ひとつ確かなことは、 2秒と観ることができなかった人を、 見ていられるようになってしまった その気持ちを言葉にすると、 「見直した」でも、ましてや「好きになった」でもなく、 「平気。」 なのだ。 もっと言えば、 「こんなの(このタレントを正視するの) 恐くもなんともない、平気だ」 という想いだ。 受け入れがたいが、恐い、と感じていたのだろう。 まわりからみるとそうでもない、 むしろ好ましい人物を、 過剰に、嫌ったり、恐れたり、というとき、 ひとつ言えるのは。 「キライ、キライ」「コワイ、コワイ」と 言っている限り、 そこと正面対決しなくて済むし、 先へ進まなくても済む、ということだ。 そしてたぶん、嫌いを克服するしないでなく、 嫌いを隠れ蓑に避けてる課題に取り組む方が、 よっぽど勇気が要る。 私の場合は、 そのタレントを通して、 気づかなきゃいけない自分の醜さや、 気づいて、その醜さを直すなり生かすなり、 乗り越えていかなきゃいけない、その前に、 母を通してもう「ゆるされてしまった」ような 感覚があったのだ。 このタレントけっこういいよ、 おもしろいよ、と母が言った、そのときに。 自分の暗部まで、 いいよ、と許してもらったような感覚があった。 だから、すこし余裕をもって、 嫌いの元となった自分の暗部を、 このタレントを通して見ようという気にも なったのだと思う。 とみんぐさんの、 「ひとを嫌う、とは、孤独だ。 だから人は、同意者を求めたり群れようとする。 けれど嫌いという気持ちを人に分け与えても、 つながるのではなく、孤独を増やすだけ。」 言葉がとてもしみる。 あいかわらず好き嫌いが激しく、 読者に、人を嫌いになるな・シャッター閉めるな、 などとは、とてもじゃないが言えない、 言う資格のない自分がいる。 でも、そんな私だから、 いままで嫌ったり閉ざしたりを さんざんしてきたからこそ、 「もし、そこで踏みとどまれたら この先の景色を見てみたい。」 というシリーズ1の男性に切実に共感するのだ。 もし踏みとどまれたら、その先に、 自分の受け入れがたい暗部に対する「ゆるし」や、 それを「生かす道」も見えてくるんじゃないか、 と私は思う。 その先に人とのつながりもあると。 さいごにこんなおたよりを紹介して きょうは終わろう。 <歴史上の人物を理解する鍵> ひらく鍵ととざす鍵、興味深い議論ですね。 ドラマ龍馬伝で、 岩崎弥太郎が坂本龍馬を回顧しながら 「龍馬は、八方美人で、この世で一番嫌いな男じゃ」 と繰り返し言うのですが その意味がやっと、わかった気がしました。 龍馬は、ひらく鍵しか持たない人なのですね。 だから、土佐にも幕府にも薩摩にも 長州にも外国人にも長崎の商人にも味方がいる。 そしてあらゆる対立を乗り越えて、 日本を前に進めるという 奇跡的な仕事をなすことが出来た。 これに対して弥太郎は、 ひらく鍵・とざす鍵の両方を持っている、 普通の人なのです。 弥太郎が閉ざした相手に対しても、 龍馬はひらいて、道を切り開いていく。 そこが弥太郎からすれば、 不愉快でしょうがないのですね。 つまりは、ひらく鍵を持つ人の存在は、 自分の柔軟性のなさを突きつける ということなのでしょう。 (T.H) |
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2014-10-08-WED
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