YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson848 勇気をくれた学生の表現


人前で話すとか、発表するとかいうと、
緊張して逃げたくなる人もいると思う。

だれしも、恥をかきたくない。

「うまく伝わらなくて、誤解されたらどうしよう」
「失敗して自分以下に見られるなんて、たまらない」
「つまらない人間と思われるなんて、死んでもイヤ」

1ミリも、1滴も、自分を損なうまいと必死になり、

「時間がなかったので準備がおいつかず」
「上司に言われてしかたなく、こんな大勢の前に立たされ」

言い訳で身を守り
ガードやら、ヨロイやら、セーフティーネットやら、
ガッチガチに身を固めて人前に立つ。

日常のなかで、偶然、
そんな大人たちに出くわすとき、

私は、ひごろ表現教育でふれている
生徒さんたちの勇姿をたまらなく懐かしく思う。

とりわけ印象深く、そんなとき決まって思い出す、

「ある1人の学生」がいる。

それは大学の秋学期、

最終課題の発表会、
大教室のステージで起こった。

学生たちは、
秋学期ずっと文章表現をトレーニングして、
その集大成の作品を1本書き上げてきていた。

発表会は、
自分の作品を一人一人趣向をこらして表現するもので、
朗読あり、一人芝居あり、
作品を映像化してくる人あり、
パワーポイントで執筆過程をプレゼンする人あり‥‥。

作品は、ひとりひとりが、
いままで生きてきた自分の経験・思考に立脚して、
自由にテーマを見つけ、本気で書き上げたもの。

学生にとって、
「自分の子供」とも、「自分自身」ともいえるものだ。

だからこそ、発表会の場には、発表者だけでなく
きく人にまで、ピーンと、固い緊張がはりつめていた。

そのステージに、

ひとりの女子学生が、
結構大きなCDプレーヤーを手に持って現れた。

ポケットから、
折りたたんだ紙を出して開きながら、
ひょうひょうと、

「今から替え歌で自己表現をします。」

というのだ。
さらに、

「みなさん、
どうぞ、手拍子! 掛け声! 口笛!
私は大好きなので、お願いします!」

さあ、みなさんご一緒に、とばかり、
場内を巻き込み、手を振り、ステップを踏み、

CDプレーヤーから流れる流行歌にのせて、
用意してきたメモを見ながら、

彼女は、替え歌で、自己表現をしたのだ。

それは良い意味で荒削り。
磨き上げてはいないし、完成度も追ってない。

「彼女はあえてそうしている。」

そう直感した。
10年近くその大学で講義しているが、
これまで彼女のような、
ふっきれた表現に出逢ったことがない。

意表を突かれて、私がポカン!としているうちに、

でも、そこから明らかに流れが変わった。

そのあと、表現する学生たち、
失敗を恐れてガードを固めていた人も、
劣等感から引っ込み思案になっていた人も、

彼女がこんなにあっけらかんと、
自分がやりたいと思ったことを捨て身でやりきるなら、

「私も!」、「僕も!」、と次々と、

ヨロイを脱いで、殻を破って、
解放的に生き生きと発表をしたのだ。

あとから学生たちの感想を見ると、
やっぱり替え歌の学生は、
ものすごくリスペクトされていた。

プロのミュージシャンもけっこういる
その大学で、たとえば音楽をやっている学生は、

「僕らは音楽を本業としているから、
彼女のような表現はとてもじゃないけどできない。
なぜなら、音楽で自分を表現してもし、スベッたら、
自分がぺしゃんこになり、目もあてられない。
だからこそ、彼女の勇気がいちばん印象に残った」と。

他の学生も、
彼女から勇気をもらったと称賛していた。

世の中から難関大学とか、
エリートとか言われる学生たちには、
おそらく、まったく意表をついた表現だったろう。

私はとても良い意味のショックを受けていた。

ニュータイプの彼女の表現に、
言葉が見つからず、
あれはなんだったのか、必死に言葉を探して、とうとう、

「切り込み隊長」

というプロ・ドラマー言葉にたどりついた。

そのプロ・ドラマーは、
よく一緒に仕事をする「ベーシスト」のことを
称賛してこう言った。

「その方向性で演奏を突っ走ったとして、
もしもコケたら、いちばんイタイであろう方向へ、
彼がまっさきに、
切り込み隊長として切り込んで行ってくれる」

だから、そのベーシストのことがみんな大好きだし、
そのベーシストのライブは盛り上がるし、
あちこちから引っ張りだこなんだと。

「勇気ある切り込み隊長」

まさにあの替え歌の学生のことだ。

あの場にいた学生たちが、
もっとも恐れる方向へ、
彼女がまっさきに切り込んで、

一発で、場にいる同世代のガードを解いた。

そして彼女は、切り込み隊長としての
自分の役割を心得ていたのだと私は思う。

自分を含め、みんなが、縮こまっているとき、
コケないように、傷つかないように、
あらかじめどう身を守るか、
保身に必死なとき、

彼女は、

「自分のやりたいことをやる、かつ、場を盛り立てる」

ことを考えていた。
そして、もっとも難しい、
捨て身の自分を差し出すカタチでこの2つをまっとうした。

人は上手い表現に魅了されるけど、
自分が揺さぶられ、変えられているのは、
勇気ある表現なのだ

と彼女の表現に、私は思う。

きょうの最後に、このおたよりを紹介しよう。

「Lesson846  傷がくれるもの」 で、
「終末期の方をお看取りする仕事しています」と言った
医師のFさんのおたよりだ。


<傷つく覚悟で>

先日、病棟で
一緒に働く看護師に時間を作ってもらい

「より良い仕事をするために
職員から私に対してのフィードバックが欲しい。
出来れば普段言えない事を指摘して欲しいので
匿名でアンケートを取り、
誰が指摘したか分からない形に変えて渡して欲しい」

と切り出しました。

決して関係性の良い職員ばかりでは無く、
辛い作業になると予想されますが、
一歩踏み出して変わり続けようと
勇気を持って提案しました。

これまでは受け身で傷ついていたけれど、
これからも変わり続けるためには
傷つく覚悟で自ら動こうと思います。

私は勇気は

「危険を知りながら、それでも意味があると信じて進む事」

と考えています。
(F)


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2017-10-18-WED

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