YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson881
 読者の声
 −書いて疲れる時は、どこか嘘をついている



書くことは本来歓びの深い行為だ。
でも、妙に疲れるとき人は、
どこか嘘をついている。

という先週のコラム
「書いて疲れる時は、どこか嘘をついている」に、

「思いあたる」、「わがことだ」、
と共感のおたよりを多数いただいた。

今週は読者のおたよりを紹介しよう。


<正直に書くということは>

私は大学二年生です。
大学の講義では、時に感想を書く必要があります。

それが、私には耐えられないのです。
なかなか書き出せず、
書き終わってもスッキリしません。
今回のお話を読んで原因がわかりました。

私は、書くことに対して不正直でした。

授業の内容を振り返り、
「これが一般的に求められている答えだよなぁ」とか、
「先生は今日の授業で
こんなことを伝えたかったに違いないのだから、
それを理解したことが伝わるようにしなくては」などなど。

講義をしてくださった先生のために
書いていたのだと思います。
だから、半ば嘘をついているような気がして
嫌なのでしょう。

では逆に、スラスラかける時はいつか?

それは、手紙を書くときです。

今でも思い出すのは、
私が部活を引退する時に後輩に書いた手紙のこと。

私のあとを受け継ぐように
幹部になった彼女に対し、
私は言うべきことは言い、時にフォローしつつ育てました。

部活の後輩の中でも1番思い入れがある彼女に、
最後に手紙を書きました。

思い切って、当時の私の弱音も書きました。

「今まで色々なことを言ってきたけれど、
私だって完璧な人間ではないのよ」と伝えたくて。

あの時スラスラと書ききった
爽やかな気持ちだけは覚えています。

正直に書くということは、
時に自身の弱さと向き合う必要があります。

しかし、そのことは私を見つめ直し、
自分自身を涼やかにすることにも繋がるようです。

(やぎ)


<話すのが苦痛でしかない、そんな時>

ぼくは高校の教員です。
話すことが圧倒的に多いです。
ホームルームで、授業で、面談で。

話すことが苦しいことも多々あります。

集団に一方的に話すとき、
そこには無関心があります。
100%の関心を獲得するのはもちろん不可能、
ある程度の無関心に慣れていかないと
心すり減ってしまう。

それでも、伝わった手応えのあるときは
充実感があります。
一年で手応えある日はわずかです。

ホームルームで、
道徳的な話をしたり、社会問題について話したり、
ぼくらは、子どもたちに何かを伝えて、
学級づくりのきっかけを作らなければならない。

クラスの雰囲気が良くないとき、
伝える言葉に窮して、
通り一遍のマナーや規則の注意喚起をして
苦痛しかない、そんな時

やはりぼくは嘘をついている。

ホームルームの時間が形骸化しているなって感じる時、
「今日は特にないからじゃあサヨナラ」
ってほんとは言いたい。

でもそれでいいのか。

何かクラス、集団を意識させるコミュニケーション、
関わりが
1分でも出現しないかな。

だけど、その術もないままクラスと対峙して、

伝えたい言葉は定形文になろうとする。

「嘘をついてないか?」
そもそも僕は、
「クラスに向き合ってないのではないか?」
「伝えられることや思いはあったのだろうか?」

(Icuteachersband)


<ブログを書いても解放されず>

私は、数年前から
自分の仕事と、独立企業した夫の仕事の掛け持ち。
慣れないダブルワークと、
共同経営者としての重い責務がのしかかり、
神経がすり減る毎日です。

澱のように心の底に溜まったものを
どこかで解放せねばと思い、
夫や友人には秘密で、

ブログを書き始めました。

他人への悪口だけはすまいと自分にルールを課し、
いざ書き出すと

「これは悪口かも」
「愚痴っぽくて暗いな」
「個人が特定されるのでは」

と結局、おとなしくまとまった文章になってしまいます。

こぎれいだけど当たり障りのない文章は、
心の解放にはならず、また、主題もボヤけ、
読む人にも魅力なく映るはずです。
当然ながら、読者は片手にも満たない状態です。

そんな稚拙な文章なのに、
ブログを書き終わった後は、いつもヘトヘトに疲れ、
かえってストレスが溜まり、
全くストレス解消になりません。

この疲れは自分を偽っていたためだ。

何のために書いているのか、
本来の目的から大きく外れ、
無駄な労力を費やしていた。

「今、自分はどうしたいのか」

じっくり自分自身と向き合って考えてから、
単なる愚痴ではなく、
読む人の目を気にするのでもなく
自分を本当に解放できる文章を書けたらと思います。

(もつ)


<あえて悪い言葉で書いて>

今回のエッセイはとても心に響きました。
嘘を書くととても疲れる。体がこわばる。

正直になろうとして、
あえて耳障りの悪い言葉を書くときもあったような‥‥。
「耳障りのいい言葉ばかり書くのは嘘くさい。」
という思いが強すぎて、極端になりすぎていたのだと思いました。

いろんな想いを持っているのが当たり前で、
どちらかに片寄り過ぎると、
本当の気持ちを見過ごしてしまいますね。

(PN)


<嘘をつかない!>

嘘を日常にしているひとは
疲れることも忘れてしまっているのでしょうね。

自分の根っこになにがあるか?さえ
わからなくなる。

そんな日常をすごすのはいやです。

50歳をすぎたら、自分の根っこに
正直に生きていこうとおもいます。

(GK)



私は、表現力のワークショップを
先生を対象にやることもある。

小中高の先生800人でやったときには、
(プライバシーに抵触しないよう少し改変を加えて
お伝えすると、)

「最近、離婚をした。
一人暮らしの部屋に帰るのが寂しい。
家族を思えば後悔ばかり。」

「実はあと3年で教師を辞める。
数年前から、時間を見つけては
海外のある土地に行き、写真を取り続けている。
そこに住んで、写真を撮って暮らそうと思っている。」

「テーマパークおたくで、
もうすぐ夏休み、テーマパークに行く計画で気もそぞろ。
生徒には内緒だけど、この楽しみがあるから
仕事をやっていける。」

などなど、
ラストに想いを表現する場では、
教育や、子どもをテーマにした人はほとんどおらず、
個人としての自分を表現した人がほとんどだった。

さすが、毎日生徒の前で話しているだけあって、
具体的で、表情豊か、目に浮かぶように話が伝わってきて、
あまりに面白くて、聞きほれた。

かなわぬことだけれど、
これら先生の個人の想い、生徒にも聞いて欲しかった。
すごく生徒の心に響くだろう、
と思わずにはいられなかった。

生徒のなかに、
離婚家庭は多く、

また、テーマパークや、アイドル、アニメなど、
自分の好きなことと、勉強を両立している人、

写真や音楽など、
自分独自の表現世界をもっている人もいる。

先生個人の深い所にある想いは、
人間の深い所、この時代の深い所に通じている。
そして、生徒個人の心に深く響く、と私は思う。

きょうは、最後にこのおたよりを紹介して終わろう。


<自分の心の“どうなりたいか”に素直になる>

どうなりたいかを考えること
だと思います。

ピアノを教えていますが
生徒に、

「どういうふうに弾きたいか
どんな演奏をしたいかを考えて」

とよく言っています。

それをイメージすると
どんな練習をすればいいかも見えてくるし
いろんなことが明確になって

一歩ずつそこへ近づいていくことも実感できる。

もちろん弾くことも楽しくなる。

そうすると、人を惹きつける演奏になる。
そんなふうに感じています。

(karen)


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2018-06-27-WED

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