マルチェッロ・リッピ監督が
記録を打ち立てようとしています。
その記録は、
半世紀以上前の1934年から1938年までの4年間に、
アズーリを率いて2回のW杯と、
オリンピックにも勝利した伝説の監督、
ヴィットリオ・ポッツォに追いつくものとなりそうです。
2年前にイタリア代表はW杯で優勝し、
その直後にリッピは監督を退きましたが、
あれから2年過ぎた今、
彼は再び代表チーム監督を務めています。
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この10月15日水曜日、
リッピ監督率いるアズーリはモンテネグロに勝利し、
2010年W杯南アフリカ大会の予選で、
大きく歩を進めています。
モンテネグロは強敵ではなかったので、
その夜のお祝いは、イタリアの勝利を祝うというよりも
リッピ監督が打ち立てた
30試合無敵の記録(引き分けも含む)を
讃えるものでした。
しかし彼の夢は、30試合負け無しという
60年間破られていない記録よりは、
アズーリにとって最高の催しであるW杯で2連覇し
ヴィットリオ・ポッツォに並ぶことです。
2連覇は、イタリアのティフォーゾ
全員の夢でもあります。
そのヴィットリオ・ポッツォですが、
1920年代終わりごろに代表チームに呼ばれた時は、
偉大な監督とは呼ばれていませんでした。
彼は並みの監督であり、
ひとりの優れた新聞記者だったのです。
当時のイタリアを統治していたファシスト党の
独裁者ムッソリーニは、
イタリアで開かれる予定だった第2回W杯に、
イタリアが優勝することを望んでいました。
第1回のウルグアイ大会では
開催国のウルグアイが優勝しましたしね。
ムッソリーニはポッツォに、
世界最強の選手でイタリアを優勝に導けるのは
だれかと尋ねます。
ポッツォの指名した選手は、モンティといいました。
アルゼンチン代表のセンターハーフで、
ウルグアイ大会の決勝戦まで戦いましたが、
優勝はできませんでした。
![monti](images/081021/monti.jpg)
W杯は国の代表チームの戦いですから、
イタリア人ではないモンティはアズーリには入れません。
そこでムッソリーニは、
彼にイタリア人の親類がいないか探せと命令し、
なんとモンティにはイタリア人の祖父がいることを
つきとめます。
こうして最強のモンティ選手はユヴェントスに入団し、
イタリアの市民権を与えられ、
アズーリの一員として1934年のW杯に優勝しました。
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![1934](images/081021/il_mondiale_del_1934.jpg)
1930年はアルゼンチン、1934年はイタリアと、
W杯の決勝戦に異なる国の代表で2回出場した選手は、
今日に至るまでの長い歴史のなかでも
ルイジート・モンティただ一人です。
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ヴィットリオ・ポッツォの2度のW杯優勝と、
オリンピック1936年ベルリン大会優勝という記録は、
これまた史上唯一ですが、
マルチェッロ・リッピは、
そこに並びたいと願っています。
こんどの南アフリカ大会は、
2年前のドイツ大会より困難かもしれません。
でも、望みはあります。
現在のイタリア政府首相と言えば、
ACミラン会長でもあるベルルスコーニで、
彼も大きな権力を持っていますが
ムッソリーニほどではありません。
ベルルスコーニが、
カカかメッシ、またはクリスティアーノ・ロナウドの
「イタリア人のお祖父さん」を探し出せたら、
リッピがW杯に連覇してヴィットッリオ・ポッツォに
追い付く助けにはなるでしょうが、
じつはFIFAの規則というものが、
そこに立ちはだかります。
現在では、ひとつの国の代表として
出場経験のある選手は、
他の国の代表にはなれない決まりになっているのです。
リッピの夢はかなうでしょうか‥‥。
2年後を、お楽しみに。
![lippi](images/081021/lippi.e.coppa-del-mondo.jpg)
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