昨年の3月、福島県南相馬市の
萱浜(かいはま)地区というところで
取材をさせていただいた。
福島県の海沿いの場所だ。
もっと伝わりやすいかと思える表現でいうと、
福島第一原発から22キロくらいのところ。

そこで、上野敬幸さんという方の話を聞いた。
上野さんの経験した悲しい出来事については、去年、
「書きかけてやめた、福島のことを、もう一度。」
というコンテンツにまとめた。

震災によってご家族を亡くされた上野さんは
地元の消防団を中心に「福興浜団」という団体を設立し、
いまも萱浜地区での捜索活動を続けている。
ぼくは、その福興浜団のfacebookを通じて、
富岡町で捜索活動がはじまったことを知った。

富岡町というのは、
福島第一原発からすごく近いところにある町で、
原発20キロ圏内を示す円の内側に位置する。

一昨年、動物愛護団体ミグノンの
お手伝いをしたときに入ったことがあるが、
そのときの富岡町は、許可なく立ち入ることができない、
いわゆる「警戒区域」だった。
当時はぼくも防護服に身を固めて作業した。

事故直後、全域が警戒区域に指定され、
全町民が避難していた富岡町は
今年の3月25日から避難区域の見直しが行われ、
南側の区域は避難指示解除準備区域となった。
つまり、入れなかった一部の地域が
住民帰還のための環境整備が進められる場所として、
行き来できる場所になったのだ。

あの震災から2年が経って、
ようやく富岡町は特別な許可がなくても
入れるようになった。

きちんと書いておきたいのだけれど、
ぼくは福島でそれほど頻繁に
ボランティア活動をしているわけではない。
もっと行きたいと思っているけれど、
なかなか行けずにいる。
この2年間で、ぜんぶの活動を合わせても
参加したのは7回くらいだ。
回数がなにかの尺度になるわけではないけれど、
福島のことを何度も書くわりには
経験が多くないということを記しておきます。

福興浜団のfacebookを読んで
富岡町の捜索活動を知ったぼくは、
それをお手伝いしようと決めた。
防護服を着ていたときに見たあの町が、
いまどうなっているのかを知りたいとも思った。
南会津高校の猪股先生から、
選手宣誓を知らせるメールが届く少し前のことだ。


福島の沿岸部における捜索のボランティア活動は、
事前になにかの申し込みが必要なわけではない。
facebookに掲載されたその日の予定と
集合時間、集合場所を把握し、そこへ集まるだけだ。

その日の集合は朝9時、
場所は富岡町にあるスーパーの駐車場。
警戒区域が解除されたばかりの場所だから、
お店がふつうに営業しているわけではない。
昼食と飲み物を買い込んで集合場所へ着くと、
すでにたくさんの人が集まっていた。
雨が降りそうな曇り空だが、暑すぎるよりはいい。

スーパーの駐車場は、アスファルトがひび割れ、
あちこちから草がにょきにょきと伸びていた。
行ったことがない人には、
その感じがうまく想像できないかもしれない。

要するに、警戒区域内にある場所は、
2011年3月11日から、
人の手がほとんど入っていない。
少し前まで警戒区域だった富岡町も
まさに、ようやく、
再建に向かいはじめたといったところだ。
だから、主要な道路は最低限修繕されているけれど、
そこから外れたところにある道路は壊れたまんまだ。
たとえば、こんなふうに。


集まった人たちに、今日の予定が簡単に説明される。
「二班に分かれて、海沿いを捜索します」と上野さん。
車で富岡漁港まで移動する。
港は、やはり壊れたままである。
あれから2年半近く経つのに。




以前、上野さんたちの活動に
ボランティアとして参加したときは、
側溝に詰まった泥をさらってきれいにした。
延々と泥を掻きだし、土を運び、
水が流れるようにする作業で、
たいへんだったけれども、
作業としてはわかりやすかった。
予定した長さの側溝をきれいにし終わったときは、
ちょっとした達成感だってあったくらいだ。



そういった、ある種のわかりやすい労働を
ぼくは勝手に想像していたのかもしれない。
けれども、上野さんは言った。

「それでは、海沿いから河口にかけて
 各自で捜索してください。
 11時半に集合して、お昼休みにしましょう。
 じゃ、よろしくお願いします」

捜索、というのは、お遺骨を探すことである。
流された生活用品などを探すことも含まれるけれど、
いちばん見つけたいのは、
まだ見つかっていない人たちなのだ。

曇天の下、集まった人たちは、めいめい散る。
けっこうたくさんの人が集まっていたと思ったけど、
とんでもない。
こんな広い場所に、これだけの人数では、とても足りない。

「各自で捜索してください」と言われ、
とりあえず、なんの根拠もなく、歩き出して、
ぼくはほんとうに途方に暮れてしまった。

どういうことかというと、かつてそこは海沿いの町だった。
あの日、ここを津波がさらっていった。
福島県の海沿いは、
福島第一原発の事故ばかりが注目されがちだけれど、
津波が荒々しく爪痕を残した場所でもある。
かつてここにあった町は、暮らしは、家や道路は、
荒れ狂う波がぜんぶもっていってしまった。
そして、この場所には誰も立ち入ることができなくなった。
だから、さらわれたあと、誰もなにもできなかった。
そのまま2年4ヵ月が過ぎた。
そうすると、目の前には、
こういう光景が広がることになる。







あれからずっとこういう場所を
捜索している上野さんたちは、
途方に暮れることもなく、むしろたしかな足取りで、
どんどん進み、茂みに入っていく。
海沿いをたしかめ、河口をのぞく。

それでぼくも見習って進むしかない。
あてなどあるはずもないが、河口から回り込み、
ぼうぼうと自由に伸びている草むらに入る。
あちこちでバッタが跳ねる。
大きなクモの巣を蹴り破りながら進む。

豊かな自然、というふうにも錯覚できる。
しかし、ふと地面を見ると、
折れたハンガーや、瓦や、鉄骨が転がっている。
あまり、それを意識しすぎてはいけない。
ぼくは意識を少し遠くへ離す。

家の土台、基礎のようなものがある。
床に敷き詰められたタイルが残っている。
風呂場、それにしてはずいぶん広い。
間取りを確認していたらわかった。
ここは、旅館だ。海沿いの旅館。
夏には、海水浴のあとの砂を流しただろう。

草でほとんど塞がりかかっている用水路に
じゃぶじゃぶと長靴で入り、
ところどころにある排水溝に詰まった泥を
かきだしてみたりする。
しかし、作業が散漫だ。
ここからここまでというふうに範囲を決めて
細かく見ていかなくては意味がない。

なにかものを探すときは、
それがあると思って探さなくてはいけない。
あるとしたらこういうところだ、というふうに
考えを組み立てながら探さないと効率が悪い。

しかし、とぼくは思う。
そして、草むらのなかで立ち止まってしまう。

ここにお遺骨があるとぼくは思えているだろうか?
この泥を掘り出したところに、
生い茂った草むらを分け入った先に、
浅い用水路の底に、まだ見つかっていない人が
いると信じながら探せているだろうか?
もっといえば、
それをぼくはちゃんと探しているのだろうか?
真面目にやってるのか、俺は。

きちんと計画立てられぬまま、
草むらのなかをあちらこちらと進んだあと、
来たほうへともどってきたら、
開けた場所に意外なものを見つけて息を飲んだ。


自動車の残骸。
のちに、それがパトカーであることをぼくは知る。



休憩のときに、地元のボランティアの方から聞いた。
ふたりの警察官が、このパトカーに乗って、
最後までここにとどまり続けたのだという。
おそらく、逃げ遅れた人がいないか、
たしかめていたのだろうと思う。
避難してくださいと、叫び続けたのだと思う。

パトカーに乗っていたひとり、
増子洋一さんの遺体は沖で見つかった。
しかし、当時25歳だった佐藤雄太さんは、
いまだに見つかっていない。
手を合わせ、お祈りする。





午前中の捜索が終わる直前に、
草むらのなかで、カセットテープを見つけた。
懐かしい、マクセルのカセットテープだ。




奈良県から来たというボランティアの方に見せたら、
「これ、テープが切れてないですね」と驚いていた。
ほんとだ。きれいに洗浄したら、聞けるかもしれない。
いったい誰が、なにを聞いていたんだろう。


昼食をとったあと、午後は海岸を探すことにした。
沖へ伸びるコンクリートの桟橋を通って、
テトラポットの防波堤のあたりまで行く。

激しく、破壊されている。
すさまじいエネルギーが襲った跡。
ものすごく重いものが、あり得ない壊れ方で。
ここも、たぶん、あの日から変わっていない。






海辺には、たくさんの生活用品が流れ着いている。
持ち主が特定できないようなものは
集めてもしかたがないのかもしれないが、
たとえば、履き物は、なんというか、
人の気配がそこに残っているような感じがして、
ぼくだけでなくみんなが拾って高い場所に集めていた。
あと、たくさんのボール。




午後の捜索時間も残りわずかになったとき、
テトラポットの防波堤の、
いちばん先まで行ってみた。



テトラポットの隙間に、
いろんな破片が詰まっている。
岩だったり、建材だったり、
いろんなものが詰まっている。

リュックや帽子やぬいぐるみなんかを拾いながら
沖のほうへどんどん歩いて行くと、
もっとも沖合にあるテトラポットの先っぽに
なにか、赤いものが引っかかってるのを見つけた。

引っ張ってみると、なんだか、
いろんな隙間に複雑にからみついているようだった。
だからこそ、流されずにすんだのだろう。

破れて絡まっている赤い繊維をほどきながら、
テトラポットの隙間から引きはがした。
水を吸って、けっこうな重さがあった。
海岸にもどって、あるべき形に整えてみると、
それは、赤いセーターだった。



ハート模様があちこちについている。
女性用のセーターだ。
どんな人が着ていたのだろう。

ボランティアとして参加しているけれど、
自分が何かの役に立てているという実感はない。
ぼくが参加しようとしまいと、成果になんの影響もない。
そんなことはわかりきっていることだ。
けれど、せめてこの赤いセーターを
沖のテトラポットから引きはがすことができてよかった。




一日の作業が終わって駐車場に集合したとき、
上野さんにご挨拶した。
ありがとうございます、とお礼を言われそうになるから
いえいえいえ、と慌てて打ち消す。

小雨がときどき降ったが、
大きく崩れなくてよかった。

50人ほど集まったボランティアの人たち。
曇り空の下で、解散する。

ぼくは郡山へ移動し、一泊する予定になっている。
そう、翌日、開成山球場で、
南会津高校の最初の試合があるのだ。


(つづく)
2013-08-22-THU