411.半端な人生から。
「半端な人生」というタイトルで、
ダーリンコラムを書いた。
いろんな反響があったけれど、
ここにもそのひとつがあった。
ぼくとしては、ゴールのない「現在進行形」連続として、
人生をとらえる人間のカッコよさを書いたのだと思う。
「完全に満足な幕切れ」なんてものは、
いくら望んでもありうるはずがない。
「悟り」ってやつがあるなら、きっとそれは、
「これでいいのだ」っていう天才バカボンのパパ
みたいなものなんだろうなぁとも思う。
世界制覇をなしとげた人だって、
本人からしたら、「それを保持できない」という意味で、
半端な人生と思っていたのではないか?
そんな気持ちで、書いた。
ぼくは、いつでもあらゆるものごとが半端なんだと
思っている。
ガンジーさんも、このコトバが気にかかったらしい。
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「ことばの怪」
ひとつの言葉がはっせられる。
熟慮した言葉かもしれないし、
ふと口をついて出たものかもしれない。
それが聞いたり読んだりした者の脳に到達し、
え、ほんとかい?いや違うぜ、と咀嚼され選別され
記憶の細胞へと運ばれる。
形を変えて出番があるかもしれないし
そのまましまいわすれられることだってあろう。
毎日つかわれる言葉の数々。
平易な言葉、哲学的なむずかしいヤツ、
その組み立て方で人生がすぎていく。
えへっ、ちとおおげさな言い様だね。
はずかしいがそんなことを考えた。
10月1日のダーリンコラムを読んで感じたが、
半端な人生、という言葉、
ガンジーの脳にみょうにひっかかる。
人々はその人生に有終の美をかざりたくてあせっている。
これをやり遂げたい、この事をかたずけなければ
死んでも死にきれない、なんて気負ってね。
でも死はいつやってくるのか。
予告がとどくのか、前兆があるのか、
死説団の人数は全長何キロにおよぶのか、
それとも突然死でたったひとりの使者なのか。
あと2ヶ月と言ったヤブは死者への使者ではなかった。
その使節団の一行は延々400日をこえまだ続いている。
どこまで続くぬかみそ、いやぬかるみぞ、
はやく舗装してくれぇ。
人は死期をさとることができるのか。
ガンジーや多くの死を宣告された患者たちは
その回答をせまられている。
象のように死期を察知できないのか。
おおむかしの人間はそのことがわかってたんじゃないのか。
人が死んだあとで人々はもっともらしく言う。
あの人はまもなく死ぬことを予感してたんだ。
だからあんなことを言ってたんだ。
じょうだんじゃねぇ、
そんなこと今のガンジーにもわからねぇよっ!
われわれ死線をさまよう者にとっては
このことを解決し知ったかぶりをするヤツらに
真実をたたきつけてやらねばならないのだ。
どこかに感じるとこがあるのか。
頭脳なのか、偏頭痛からか、手のしびれ、
小指の痛みからか。
死因にもよるだろう。
それまでの激痛が何もしないのに突然おさまった時とかね。
あ、これで明日が命日だな、なんてさ。
毎日探してるよ。でもわっからねぇ。
朝のめざめどき、昼のまどろみタイム、
なにげなく空をみつめるとき、
葉っぱが色づき落ち葉となって散るとき、
カラスが屋根でないてる日、
ネコと目があっておたがい何分も見つめあってる時、
月が満ちて潮がひいて風がとだえて、
こおろぎが沈黙したとき天の声が聞えるのか。
ヘンな話になってしまった。
いったん発せられた言葉はミサイルより正確にとどく。
相手の表情、態度をみのがさずはなしかけよう。
語気つよく話す時、
おなじ言葉でも爆破力がちがってくる。
爆笑がかえってくると思ったのに
苦笑されちゃったりすることもあるよねぇ。
半端な人生、未完成交響曲、
みなさんシートベルトはしめてまっか?
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「未完成交響曲」かぁ。
あ、シートベルトってのは、シューベルトのシャレね。
(つづく)
※『出前ガンジー』あるいは『ガンジー水戸黄門』の
企画について。
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詳しくは9月24日付けの『ガンジーさん』を
ごらんくださいませ。
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