423. 才能。
今日のガンジーさんは、才能のことを語っている。
いや、才能の探され方、についてかな?
『才能』についての話は、むつかしい。
この問題は、誰でも一度や二度や三度や四度は
考えたことのある問題なんだろうと思う。
ぼくは、このごろ、やっと自分なりの結論がでた。
「才能があっても、しょうがない」という、
なんとも逆説的な結論だ。
たいていの人が、自分に才能があるのかないのかを、
思い悩む。
「あるなら、続ける」し、「ないなら、やめる」
というふうに考えて、
自分の才能のあるなしを探ろうとする。
だが、才能があるからといって、
なにかができるものなのだろうか?
才能の多寡なんて、そんなに差があるものじゃない。
親からもらったもの、という意味で、
イチローを超える人はいっぱいいたはずだ。
もちろん、努力がすべてだとは言えないけれど、
ほんとうに、やり続けることができるなら、
しかも、そこに向上しようという意志があるなら、
飯が食える程度になら、誰だってなれる。
ぼくも、そう思うようになっている。
『悪人正機』という本のなかで、吉本隆明さんが言った。
「十年毎日続けられたら、必ずものになる。
おれが保証しますよ」と。
吉本さんが保証すると言ったからって、
どういう保証をされるわけではないけれど、
このコトバが、ほんとうなんだと思えるようになった。
たいていの「やりつづける」って言ってる人って、
ほんとうはやり続けてないことが多いんだもん。
___________________________
「才能をさがせ」
天賦の才を引き出す手だてはないものか。
自分で自分の才能がわからずに
人生の大半をすごしてしまう人が多いんだろうなぁ。
職業的な教師といわず
身近にすぐれた人がいると幸いするよね。
おおかたの人たちは日々の生活におわれ、
またちっぽけな快楽にうつつをぬかし
あたら貴重な人生を捨ててしまっている。
まわりに年寄りがふえてきたこの頃だが、
その人たちがしっかりと
人生をきざんできた人ばかりではない。
ろくでもないもうろく爺もいる、
たとえば.....みたいなさ。
その切りくちはみじん切りか、せんろっぽん切りか。
ざっくりとおおざっぱな親の七光りか
莫大遺産の食いつぶし人か、
そのような人にはあまり説得力はない。
カラスのようにクロウして、
嫌われつまはじきされてそれでも悪事をはたらかずに
真っ直ぐに人生をわたって来た人こそが、
若者に「人生とは・・・」と語りかける資格がある。
口下手でとつとつと語るそれらの人は
なかなか話してくれないものだ。
そんな時は子どもと話す時のように急いではならない。
自分ではわからない自分の才能を引き出してもらうには
あせってはいけない。
今日がだめなら明日、あセってまでも待とう。
口八丁手八丁なんてのは経験からくる動作であって
その一瞬一瞬に是非を判断してるわけじゃない。
はじめ人気でちかごろさっぱりの女性大臣なんかは
亡きオヤジの見よう見まねで
身体でおぼえたことを演じてたからね。
天賦の才を引き出すには
他人にたよってばかりでもいけない。
それには自然に学ぶことも大切だと思うガンジーです。
あるいは他の動物や昆虫の動きなんかを見て、
ハッ!とひらめくことだってあるからです。
柔道のお手本になるネコなんかがそうだよね。
田舎っぺ大将ってマンガおぼえてる?
むずかしい本でなくても読書で眠くなる人っているよね。
反対になんでも読んじゃう本の虫もいる。
このちがいはなんなのか、
熱っちゅうすることと関心のわかないこととの
区別はどこできまるのか、たぶん脳の作用によるんだろう。
それなら熱っちゅうできるように脳を働かせればいい。
それがちまたで言う天才に
なるかならぬかの境目なんじゃないかな。
寝食をわすれて没頭すれば、
そして永年続けることが出来れば
たいていのことは成就するんじゃないかと思う。
そうだね、まず20年やれば。
たのしいから熱っちゅうできる、たのしいから続けられる。
その熱っちゅう出きる事を見つけた人こそが
すでに天賦の才能を引き出したことになる。
エヘン!そう思わないかい。
___________________________
ガンジーさんの語っている才能論については、
ぼくにはちょっとむつかしくて、わからない。
『才能』についての話は、むつかしい。
(つづく)
※『出前ガンジー』あるいは『ガンジー水戸黄門』の
企画について。
ガンジーさんの行脚先を募集しています。
詳しくは9月24日付けの『ガンジーさん』を
ごらんくださいませ。
|