牛腸茂雄を見つめる目牛腸茂雄を見つめる目

写真家・三浦和人さんに聞く、夭折の写真家・牛腸茂雄さんのこと。

   

第2回 牛腸茂雄を見つめる目。2016/11/25金曜日

──
桑沢デザイン研究所に入学した時点で
デザイナー志望だったということは、
出会ったときには、
牛腸さんは、
カメラを手にしていなかったんですか?
三浦
まだ。牛腸も、僕もね。
──
そのころの「デザイン」というと、
今とは語感もちがうと思うんですけど、
どういうもの、だったんでしょう。
三浦
当時というのは1966年くらいですが、
「デザイン」という言葉が、
ようやく、認められてきた感じです。

それまでは
「広告デザイン」だとか、
「衣装デザイン」だとか、
「商業デザイン」だとか、
デザインの「頭」に、
何かしらの言葉がくっついてたんです。
──
なるほど。
三浦
でも、そのころから、
ただの「デザイン」という概念や言葉が、
認識されはじめたというか。
──
前回の東京オリンピックのポスターが、
1964年でしたよね。
三浦
うん、あれは亀倉雄策さんのデザインだけど、
当時の桑沢には、
そのまわりにいた綺羅星のような人たち、
具体的に言うと、
杉浦康平、田中一光、粟津潔‥‥なんて人が、
先生として教えに来てた。

彫塑の先生は彫刻家の佐藤忠良さんだったし、
デッサンの授業には、朝倉摂さんとか。
──
何たる、錚々たる。
三浦
その後は、浅葉克己さんも教えているし、
少し前に亡くなったけど、
東京都のポスターをずっと手がけていた
青葉益輝さんなんかもいた。

とにかく、そういった、
当時どこよりも新鮮で脂の乗った講師陣が、
僕たち生徒に
毎日ものすごい量の課題を出してくるわけ。
──
おお。
三浦
基礎の授業が厳しかった1年のときなんて、
牛腸さんと顔を合わせるたびに、
「今日、寝た?」
「寝てない。徹夜2日目」とか言い合って。
──
そんなにハードだったんですか。
三浦
職業訓練校だから、厳しかったんです。

毎週毎週、先生という先生が、
たっぷりした課題を出してくるという。
──
生徒さんには、どんな人が?
三浦
同じクラスで、有名なところで言えば、
矢吹申彦さんとか。
──
え、あの、イラストレーターの。
そうですか、矢吹さんも同級でしたか。
三浦
うん、当時、彼はすでに
横尾忠則さんの助手なんかやってたりで、
雰囲気のある人だったな。
年齢も、僕らより上だったりしてね。

あと、串田孫一という随筆家の息子で、
自由劇場の串田和美の弟の
串田光弘ってデザイナーも、同じクラス。
──
でも、そんなにも学校が忙しかったら、
脱落していく人とかも‥‥。
三浦
もう、次々に脱落していきましたよ。

40人いた生徒のうち、
毎回、徹夜しながらも課題を出して
授業についていってたのは、
せいぜい
10人とか15人とか、それくらいだった。
──
そのなかに、牛腸さんは‥‥。
三浦
ちゃんと入ってた。
──
三浦さんも?
三浦
僕もね、なんとか。
──
矢吹さんは‥‥。
三浦
彼は、まあ、独自路線で(笑)。
──
我が道を行かれていたと。なるほど(笑)。
三浦
でね、そういう授業のなかのひとつに、
「写真」が、あった。

カメラなんてものが、
まだまだ一般的じゃなかったころです。
──
貴重品といえば
真っ先に「カメラ」という時代ですか。
三浦
というより、自分専用のカメラなんて、
ほとんどの人が持ってなかったんじゃない?

当然、僕たちも持ってなかったけど、
学校には、
フジカシックスという蛇腹式のカメラが、
40台とか50台、あったんです。
──
そんなに。クラスの人数分ですね。
三浦
だから、写真の授業のときにはもちろん、
きちんと申し込みをすれば、
放課後や休日にも貸してもらえたんです。
──
では、三浦さんも牛腸さんも、
そのときに、はじめてカメラを手にして。
三浦
そうです。写真の授業では、たとえば
「空を撮ってきなさい。
 ただし画面の4分の3を空にすること」
みたいな課題が出るんです。
──
4分の3の面積を、空に。
三浦
残り4分の1に、ビルなり何なりを入れて。

フィルムもネオパンFとかSSとかって
きちんと指定されていて、
シャッタースピードは125分の1、
絞りは11か8で‥‥って、
ものすごく細かく決められていたんですよ。
──
その条件で撮りなさい、と。
三浦
そこまでガッチガチに決められているのに、
牛腸さんという人は、
ぜんぜん、条件通りに写真を撮ってこない。

これなんかも、空、ほんのちょっとでしょ。
──
ほんとだ。では、落第ですか。
三浦
いや、それが、そんなことないんですよ。

ようするに、写真がいいから。
先生も、よければ何も言わないんだよね。
──
ルール無視でも、
認めざるをえない説得力があった、と。
三浦
ほら、こっちの写真なんかも、
牛腸が親戚の人を撮ったものなんだけど、
頭の上に「柱」が来てますよね。

これ、どんな写真の教科書を開いたって、
セオリー的には
絶対ダメって言われる構図なんです。
──
頭に刺さっているように見えるから。
三浦
そう。
──
牛腸さんは、そのセオリーを知った上で、
敢えて無視してるんでしょうか?
三浦
もう、完全に意識して撮ってます。

でも、それは、たぶん、
他人とちがうことをしようっていうより、
彼の感性なんだと思う。
──
では、そうこうするうちに、
写真のほうが、おもしろくなっちゃって。
三浦
そう、牛腸さんの場合は、
写真家の大辻清司さんが才能を見抜いて、
「写真を専門にやらないか」と。

デザイナーを目指して桑沢に来てたから、
迷ってたみたいだけど、
でも、だんだん、写真に可能性を感じて。
そこから、本格的に。
──
学生当時の牛腸さんは、
どんな写真を、撮っていたんですか?
三浦
やっぱり、街の中。
──
多いですものね。街の雑踏を撮った写真。
三浦
彼は、桑沢を卒業したあと、1971年に
写真家の関口正夫さんと共著で
『日々』という写真集を出しました。

1968年、69年、70年あたりの
東京近郊‥‥
渋谷とか羽田なんかを撮ってるんですが、
当時、あんな写真は、なかった。
──
なかった‥‥というのは、
そのような感じの写真がなかった、と?
三浦
今だと当たり前の写真に見えるでしょ。

でも、それまでの「写真」というのは、
「こう撮らなきゃいけない」
って、ある程度、決まっていたんです。
──
型‥‥のようなものですか。
三浦
多くの写真家のたまごが
土門拳さんや木村伊兵衛さんの写真を
お手本にするなかで、
牛腸さんは、
あんまりそういうことにはとらわれず、
赴くままに撮っていました。

だから、周囲の反応も
「なんだ、この、何でもない写真は?」
みたいな感じが、ほとんどで。
──
そうだったんですか。
三浦
でも、何でもない写真って撮れないよ、
なかなか。
──
他方で、ポートレイトも多いですよね。

牛腸さんの写真を評して、
「被写体との間に独特の距離感がある」
と言われることもあるようですが。
三浦
ええ。
──
その点については、どう思われますか?

たしかに、牛腸さんの人物写真、
とくに、子どもたちを撮った写真って、
ニコニコ笑顔の、
かわいらしい天使を撮りました、
という感じではないとは思うのですが。
三浦
むしろ、逆のことも多いよね。
──
はい、不安そうな目つきをしていたり。
三浦
おそらく、距離感うんぬんと言われる
理由のひとつは、
「子どもたちの表情が強張っている」
ように見える写真が、
少なくない数、あることだと思います。

牛腸さんの代表作に
双子の女の子を撮った写真があるけど、
お姉ちゃんだか、妹だか、
「あの写真、
 自分が怖い顔してるから嫌いだった」
って、のちに言ってたし。
──
あ、実際に、撮られた人が。
三浦
やっぱり、まだ子どもですから、
本能的に自分たちとの「ちがい」を感じて、
緊張してるんでしょう、牛腸さんに。
──
それはつまり、身体的な特徴のことで。
三浦
で、そのことは、
牛腸さん自身、よくわかってたと思う。

だって、はじめて会う人には、
自分の姿に、
多かれ少なかれ「反応」されることを、
30年以上、続けているわけだから。
──
ええ‥‥。
三浦
彼は、そのことを踏まえて、
人物のポートレイトを撮ってたと思う。
──
自分が撮るとこうなる‥‥ってことを、
ある程度、わかって。
三浦
牛腸さんの才能を見出した
大辻清司さんが、こう書いてるんです。

「牛腸茂雄のことを何も知らなくても、
 写真を理解することはできる。
 でも、牛腸茂雄の生い立ちを知れば、
 もっと深く理解できるだろう」
──
牛腸茂雄を見つめる目‥‥というものが
その写真に、影響を与えていると。
三浦
だからこそ、牛腸の写真には、
牛腸が滲み出ていると、感じるんですよ。

たとえば、篠山紀信さんという写真家は、
本当に写真がうまいですよね。
そのことは、もう、間違いないです。
──
はい。
三浦
でも、その写真に
篠山さん自身が滲み出てるかと言ったら、
とうてい、そうは思えないわけで。
──
ええ。
三浦
牛腸の写真には、牛腸が滲み出ている。

それは、街の雑踏の写真にも、
子どもの写真にも、ポートレイトにも。
──
出ざるを得ない‥‥というか。
三浦
そうなんだと思います、うん。
 
<つづきます>