牛腸茂雄を見つめる目牛腸茂雄を見つめる目

写真家・三浦和人さんに聞く、夭折の写真家・牛腸茂雄さんのこと。

   

第3回 あこがれの存在。2016/11/28月曜日

──
三浦さんのお話をうかがっていると、
牛腸茂雄さんという写真家は、
本当に、
独特の存在感を持っていたんだなと
感じます。
三浦
そうね、ただ、たしかに写真家としては、
他の誰にも似ていなかったけど、
ひとりの若者としては、
本当に何でもない、ふつうの人間でした。
──
ああ、そうですか。
三浦
病気のせいで、そこらへんにいる人とは
少しようすがちがうわけで、
どうしても、みんな、
その部分に「反応」してしまうんです。

初対面の場合には、とくにね。
──
ええ。
三浦
牛腸さんという人は、
30年以上、
まわりの人からの「そういう反応」を、
受け止め続けてきた。
──
はい。
三浦
だから、写真集のタイトルも
『SELF AND OTHERS』なわけで‥‥。
──
そうか、それで「自己と他者」。
三浦
ふつうだったら、
「こんな病気に罹っていなかったら、
 あんな生活ができたのに、
 こんな人生が送れたのに」
という思いが、
「恨みつらみ」という格好で噴き出しても、
不思議じゃないと思うんです。
──
そうですね。
三浦
牛腸には、それがなかったんだよなあ。
──
そういう場面、見たことないですか?
三浦
ない。少なくとも僕には見せなかったし、
当時の仲間に聞いても、
牛腸の暗い顔、絶望している表情なんか、
見たことないって言うと思う。
──
根も明るかった‥‥んでしょうか?
三浦
もちろん、
意識して明るくふるまっていた部分も
あるとは思うけど、
やっぱり、もともとの性格が、
明るくて前向きだったんだと思います。

たとえばね、街を歩いているときとか、
かわいい女の子を見かけると、
ぴゅーって口笛を吹いたりするんだよ。
──
うわー、なんか、昭和のマンガみたい。

というか、むしろ、
なかなかできなくないですか、それ(笑)。
三浦
ビックリするんだ、こっちも。
──
あと、お写真を拝見すると
おしゃれな人だったのかなと思いました。
三浦
そうだね、洋服にもこだわってました。

仲間うちで最初にパーマをかけたのも、
たしか、牛腸だったと思う。
──
あのヘアスタイルは、パーマでしたか。
三浦
当時は長髪のヒッピーみたいな髪型が
流行っていたころだから、
パーマなんて、本当にめずらしい時代。

そんな時代に、牛腸は、
モジャモジャ頭にハンチングを載せて、
セーム革のコートを着てた。
──
若い写真家どうし、
みんなで、お酒を飲みに行ったりとかは?
三浦
彼は、ほとんど飲まなかったんだけど、
僕をはじめ、
まわりの奴らが阿呆みたいに飲むんで‥‥。
──
ええ(笑)。
三浦
そのうち、少しは飲むようになってたかな。

どっちかっていうと、
僕たちが酔っ払っていくようすを眺めては、
おもしろがってた感じだね。
──
酒に酔って熱い写真談義、とかは‥‥?
三浦
そういうのは、なかったです。
──
あ、そうですか。
三浦
写真に関して言えば、
おたがいに「撮ったもの」を見れば、
それで、わかりますから。

もうちょっとだね、とか、
ああ、これはいい、とか。
──
じゃあ、そういうときは、
どんなお話を、されてたんですか?
三浦
モモエちゃんの話とか‥‥。
──
モモエちゃん‥‥とは、山口百恵さん?
三浦
そう。
──
モモエちゃんが、お好きで?
三浦
あのね、当時、オーディション番組で、
勝ち抜いていくと
プロになれるっていう番組があったの。
──
はい、有名な『スター誕生!』ですよね。

小泉今日子さんとか、中森明菜さんとか、
ピンク・レディーとかを輩出した、あの。
三浦
そうそう、そのテレビ番組に、
当時、モモエちゃんが出ていたんです。

で、牛腸さんは、
はじめてモモエちゃんを見たときから、
「あの子はすごいぞ、
 将来、絶対スターになるはずだ!」
って、
ものすごい勢いで断言してた(笑)。
──
実際、大スターになりましたものね。
さすが写真家、見る目がたしかです。

でも、本当に、
いたってふつうの若者の会話ですね。
三浦
何か、秘話とかすごいエピソードがなくて
悪いんだけど‥‥
本当に、そんな思い出しかないな(笑)。
──
先ほど三浦さんは、牛腸さんのことを
「他の誰にも似ていない写真家」
とおっしゃってましたが、
敢えて似ている写真家を挙げるとすると、
誰だと思いますか?
三浦
うーん、なかなか思いつかないけど‥‥
ある部分では、
ダイアン・アーバスなんかに近いか‥‥
いや、やっぱりちがうか。
──
ダイアン・アーバスさんと言うと、
ファッションなどを撮っていた、女性の写真家。
三浦
アメリカの
『CONTENPORARY PHOTOGRAPHERS
 TOWARD A SOCIAL LANDSCAPE』
という写真集のなかの
ゲイリー・ウィノグランドとか、
リー・フリードランダー、デュアン・マイケルズ、
あるいは、
奥さんとか子どもとかをよく撮っていた
ブルース・デビッドソンなんかにも
雰囲気は、わりに似ていると思うんだけど‥‥。
──
ええ。
三浦
あ。
──
はい。
三浦
和田誠さん。
──
え、イラストレーターの?
三浦
そう、写真家じゃないんだけど、
案外‥‥近いかもしれない。

牛腸さんの撮る写真って、
和田さんの描く、あのイラストの感じに。
──
どんなところが、ですか?
三浦
和田誠さんって、じっと相手を見つめて、
端的に、見事に描き上げちゃうじゃない?
──
ええ。
三浦
和田さんの「一瞥」は、
相手の奥深いところまでとどいてしまう、
イラストを飛び越えた画(え)だと思う。
──
ああ‥‥。
三浦
牛腸は、写真で、
同じようなことをやってたんじゃないか。
──
なるほど。
三浦
というのも、牛腸の場合は、
たまたま「写真、カメラ」だっただけで、
もしかしたら
他の表現でも良かったのかもしれないと、
思うことがあるんです。

文章なんかも断片的に残っていますけど、
すごく、魅力的ですから。
──
はい、いま開催されている展覧会場に
掲示されていた
お姉さんへの手紙とか、よかったです。
三浦
だから、最期は‥‥
身体が弱って写真が撮れなくなったら、
言葉や文章のほうへ行きたい、
そういう希望があったんです、彼には。
──
でも、それも、叶わずに。
三浦
30半ばを過ぎたら急激に弱っていった。

で、あるとき電話がかかってきて、
「三浦さんさ、
 俺、もう、ちょっと無理かな」って。
──
それは、ご本人から。
三浦
うん、妻にお弁当をつくってもらって、
すぐに会いに行ったんだけど、
あの前向きな牛腸が弱気で、
「もう階段を登るのがしんどいから、
 家に帰るよ」
って言って‥‥新潟の実家に。

当時はまだ、
東北新幹線が東京まで来てないころで、
大宮まで見送りに行ったんだ。
──
はい。
三浦
あのとき、それじゃあって別れて、
それで、そのまま‥‥亡くなってしまった。
──
36歳で、たしか心不全で。
三浦
でもね、牛腸の亡くなるときの言葉、
最期の言葉というのがあって。
──
ええ。
三浦
「ネバー・ギブ・アップ」だって。
──
そうなんですか。
三浦
うん。
──
明るく前向きにふるまってはいたけど、
やはり、そういう気持ちを、
心の奥に持ってらっしゃったんですね。
三浦
そうなんだと思う。
──
最後に、写真家・三浦和人さんにとって、
牛腸茂雄さんとは、
あらためて、
どのような写真家だったと思われますか。
三浦
そうですね‥‥どう言ったらいいかなあ、
たとえば、牛腸さんにとっては、
大辻清司さんという写真家が
いわば「あこがれの存在」だったんです。
──
自分を見出してくれた先生ですね。
三浦
そう、大辻先生みたいに生きたいって、
写真だけでなく、
人生そのものについても、
牛腸は、そう思っていたと思うんです。
──
はい。
三浦
で、僕にとっては、それが牛腸なの。
──
つまり、あこがれの存在?
三浦
先生でもないし、むしろ歳はひとつ下だし、
とても身近な友人だったんだけど‥‥。

でも、この歳になっても、
「牛腸だったら、どうするかなあ」
「牛腸だったら、どう思うかなあ」
って、いまだに考えてる。
──
36歳で時間を止めた、
今や自分より、
ずっとずっと若い写真家に対して。
三浦
まだ彼が生きていたころには
そんなことは思わなかったんだけど、
亡くなって、
時間が経てば経つほどに思うんです。

「牛腸は、この写真を、
 どういう思いで、撮ったんだろう」
「牛腸は、どうして、
 写真を撮っていたんだろう」って。
 
<終わります>