── | 東西冷戦から続くスパイ合戦の渦中に 巻き込まれていたのか、 はたまた、すべての出来事は 偶然のめぐり合わせだったのか‥‥と 大きな謎をのこした 前回・第3回の「ひどい目。」ですが。 |
---|---|
TOBI | 黄金のイエティ‥‥いや、 レジーナ・ニジンスキーというロシアの女は 旧ソ連のKGBにより 亡命学生を装ってパリへ送り込まれたものの ある時点で祖国を裏切り 西側に寝返った二重スパイだった‥‥と ぼくはいまでも怪しんでいます。 |
── | 「その部屋」に住んでいたトビーさんの 「皮膚感覚」が、そう言ってるんですね。 |
TOBI | 「レジーナ・ニジンスキーさん、 あなたはいったい、何者なんですか?」 彼女が僕の前から忽然と消えて以来、 心のなかでは何度もそう叫びましたし、 もし再び会うことがあるなら その正体を問い質してみたい気持ちの反面、 でも、やっぱり‥‥知りたくない。 |
── | なぜですか。 |
TOBI | だって、怖いから。 |
── | アメリカ人カメラマンと恋に落ちたせいで 顔面を覆っていた「金のうぶ毛」を きれいサッパリ剃り落とし‥‥。 |
TOBI | 剃毛直前は うぶ毛というより「フサ毛」だったけど。 |
── | 一転ゆで玉子のようなツルツル顔で トビーさんの前にあらわれるシーンなどは ちょっとしたホラー、 日常に潜む「UMA」を感じますものね。 |
TOBI | あるいは「毛を剃る」という行為は 組織への忠誠を示す儀式でもありますから 彼女は金のうぶ毛を剃ることで、 何らかの「ケジメ」をつけたのかも‥‥。 |
── | 本日、おうかがいする「ひどい目。」は、 そんな 「亡命ロシア人から借りた 築400年のアパルトマンで 壁の電話回線が火を噴き、 中から盗聴器が出てきた件」 という 前回の「ひどい目。」とまったく同じ時期、 それと交差するようにトビーさんを襲った 「アナザー・ひどい目。」であると。 |
TOBI | いかにも、そのとおりです。 |
── | どうぞ、お聞かせください。 |
TOBI | 前回は、上の階からの水漏れが原因で 電話線が火を噴き 結果、そこに取り付けられていた「盗聴器」が 発見されるわけですが‥‥。 |
── | ええ。 |
TOBI | その「水漏れ」が、ひどかったんですよ。 | ── | すみません、トビーさん。 前回の「スパイ合戦」と比較してしまうと 言葉のインパクトやイメージからは 「なんだ、ただの水漏れかよ」 と、ぜんぜん大したことないみたいに 思えてしまうのですが‥‥。 |
TOBI | あなどることなかれ! |
── | はっ。 |
TOBI | 水は「漏れた」ていどではなく、 いちばん近い言葉としては「氾濫」です。 壁に設置されていた電話コンセントが 浸水したほどですから ひざの下まで、汚水にまみれたのです。 |
── | そんな遠い目をして。失礼しました。 |
TOBI | 悪夢は「7日間」続きました。 |
── | そんなに。 |
TOBI | ぼくが、このときの汚水流出事件のことを 「ぼくの7日間戦争」 と呼んでいるゆえんですが ともあれ、あれは忘れもしない正月早々。 1月7日の火曜日の深夜のことです。 その年、パリ市民は 連日「マイナス10度」を下回るような 厳しい冬に耐えていました。 |
── | はい。 |
TOBI | そのような寒い日の夜、 ぼくがベッドの中でウトウトしていると シャワールームのほうから 「ゴ、ポ、ゴポ、ゴポゴポゴポ‥‥」 という 奇ッ怪な音が聞こえてきたんです。 何だろうと見に行くと、 そこらじゅうが水浸しになっていた‥‥ このあたりは 前回にもすこし触れていますが。 |
── | ええ。 |
TOBI | なにせ古いアパルトマンですから 排水管の一部が詰まってしまったようで 上の階の誰かが使った水が 行き場を失い、 僕の部屋のシャワールームの排水口から 溢れ出していたんです。 そのときの逆流水には 「お花畑のような香りのする泡」が 多量に含まれていたので、 これはきっと「風呂水」だろうなと。 |
── | なるほど。 |
TOBI | うちは4階だったのですが 上の5・6・7・8階には合計8世帯。 それら住人全員の顔を思い浮かべて、 あの、8階の右の部屋の 若くてハト胸のボリビア人女性が 泡の風呂にでも浸かってるんだろうと 察しがつきました。 |
── | みごとな推理です。 |
TOBI | でも、そんなことより、 大量の泡を含んだ水が波打ちながら シャワールームの床を リビングへ向かって押し寄せてきたので ぼくは、古雑巾やバケツを総動員して 溢れた水をすくい、 離れのトイレに運び、捨て続けました。 |
── | マイナス10度の凍てつく夜に‥‥。 |
TOBI | どれくらいの時間が過ぎ去ったでしょう。 何リットルの水を、掻き出したでしょう。 いつしか、 ボリビア女のバスタイムは終了したようで 排水口からは また別の種類の水が湧き出しています。 |
── | 別の種類? |
TOBI | ええ、お次は「洗濯排水」でした。 なぜなら、合計で4回、 排水の「ヤマ場」が、訪れたので。 |
── | つまり? |
TOBI | 洗いの1回、すすぎの2回、脱水の1回。 |
── | その排水パターンから「洗濯機か!」と? |
TOBI | 逆流してくる水の「表情」も 回を追うごとに、変化していきました。 洗いからすすぎ、そして脱水ですから、 水に含まれる洗剤の割合が 徐々に低下してゆき、 最後は ほとんど単なる冷水がチョロチョロと。 |
── | 他人の家の「排水」に対する、 おそろしいまでの洞察力‥‥。 |
TOBI | こんな夜中に洗濯機をまわすのは いつも帰りが遅い 7階の左の部屋の銀行員風の男に違いない。 そう思いながら、水を汲み出し続けました。 |
── | ええ。 |
TOBI | 銀行員男の洗濯タイムが終わったときは 真夜中の2時を過ぎており ぼくは、ほとほと、疲れ果てていました。 原因の究明は明日にして今夜は寝ようと、 ぼーっとしながら 汚れた雑巾をすすいでいると 洗面台の穴に吸い込まれていった絞り水が、 すべて シャワールームの排水口から溢れ出てきて ふたたび床を水浸しにしてゆきます。 |
── | 泣けてきますね‥‥。 |
TOBI | 真冬の深夜に、人知れず、 他人の家の汚水を汲み出している自分。 自らの流した古雑巾の絞り水が 自らの足元から湧いてくる、あのやるせなさ‥‥ あなたに、わかりますか? |
── | わかりませんが、同情します。 |
TOBI | 汚れた手を洗ったら その汚水が足元に溢れ出てきたので それを拭いたらまた手が汚れ、 その手を洗うと その汚水がまた足元に溢れ出て‥‥。 突然、 深いほら穴をのぞき込んでいるかのような 虚無感に襲われました。 ぼくはいったい、何をしているんだろうと。 |
── | 「恐怖! 無限ループ地獄」状態。 |
TOBI | そしていつしかぼくは 洗面所の床に這いつくばるようにして 眠り込んでいたんです。 |
── | 身も心も、まさにボロ雑巾となって。 |
TOBI | 翌朝、目を覚ますと さいわい、水は逆流していませんでした。 耳を澄ますと 「チョロチョロ、チョロチョロ‥‥」と 配管に水が流れる音さえしている。 |
── | じゃあ、詰まりが取れたんですかね? |
TOBI | いえ、人生がそんなに甘くはないことは 重々承知です。 ただ、配管が完全に詰まっているわけじゃなく、 少なくとも、お風呂や洗濯など、 大量の水を使わない限りは 逆流してこないのだろうと見当をつけました。 |
── | まだ、ちょっとの「隙間」が空いてると。 |
TOBI | だからいまのうちに‥‥つまり、 また夜になって 上の階の住人が大量の水を使い出す前に、 何とか手を打たなければならない。 そう思って、 どうにか、水道工事の人を捕まえようと、 大家のレジーナはアメリカですから 管理人に相談しに行ったり、 アパルトマンの仲介会社に連絡したり、 知り合いに電話をかけたり、 あらゆるツテを当たったんですが‥‥。 |
── | ええ。 |
TOBI | まだ陽の高いうちに聞こえてきたんですよ。 あの‥‥奇ッ怪な音が。 「ゴ、ポ、ゴポ、ゴポゴポゴポ‥‥」 |
── | ひいい。 |
TOBI | 時刻はまだ黄昏どきにも早かったので これは、上の誰かが 夕飯の支度をはじめたなと思いました。 なぜなら、ナスのヘタやら アーティチョークの剥いたカスやらの 台所系生ゴミが シャワールームの排水口から 次から次へと姿をあらわしたからです。 |
── | じゃあ、それらのカスが かろうじて開いていた配管の最後の隙間を フタしちゃったんですかね。 |
TOBI | そう、ヘタがフタを‥‥ね。 築400年のアパルトマンの老いた排水管に とどめを刺したんです。 ぼくは、 コッテリとした食用油の浮かんだ水を バケツで汲み出しながら、 生ゴミを台所に流している連中が こんなにいることに怒りを覚えながら、 えんえん ヘタやカスや魚の骨を拾い続けました。 |
── | 何の拷問でしょうか。 |
TOBI | そして、汚水と生ゴミにまみれながら いつしかぼくは 「明日からは ナスはヘタまでぜんぶ食べよう。 皿に残った油も ベロベロ舐めてきれいにしよう」 と、心に決めていました。 |
── | ‥‥それは、なんでですか。 |
TOBI | 「ナスはヘタまでぜんぶ食べよう。 皿に残った油も ベロベロ舐めてきれいにしよう。 なぜなら‥‥」 |
── | ‥‥なぜなら。 |
TOBI | 「階下に、それを拾い集めている人間が いるかもしれないから」 |
── | ふ、深い‥‥。 |
TOBI | 「ナスはヘタまでぜんぶ食べよう。 皿に残った油も ベロベロ舐めてきれいにしよう。 なぜなら、 階下にそれを拾い集めている人間が いるかもしれないから」 そのとき、素直にそう、思えたんです。 |
<つづきます> |
2014-09-17-WED |