カメの歩みの楽器。
ピアノを弾く。
短い連載。ピアノを弾くってどういうこと?
ひょっとしたら、日本ではピアノって、
ギターの次にみんなになじみの深い楽器かもしれない。
お稽古のひとつとして、歴史的に大流行したこともある。
ピアノを弾くって、どういうことなんだろう。
「14年ほどピアノの訓練をしたけれど、
 いまはプロのプレイヤーではない」という立場の
芸術大学の学生さんに、聞いてみました。

#2 ピアノを弾くということ(後篇)


前回は、ちょっと脱線しましたが、
「ピアノから学んだことって何?」
「ピアノを学ぶことってどういうこと?」
というほぼ日スタッフさんからの質問をもとに、
レッスンと練習の積み重ねについて、触れました。

レッスンのなかで、先生に指摘されたことを
どれだけ正確に自分のなかにインプットできるか、
ひとつの指摘を曲の他の場面でも応用することができるか、
そういうひとつひとつのことが、
上達の度合いに大きく影響を与えていきます。

わたしも毎回レッスンを録音して、
帰りの電車のなかで聴き返しながら、
楽譜に注意点を書き込んだりして、
次の日からの練習の作戦を練ったりしました。

音楽に詳しい親がいるひとなんかでは、
親が毎回レッスンについてきて、
もう一冊楽譜を用意して、そこに書き込んでいく。
そういう姿は、何度も見かけました。

でも、最終的にいちばん比重がかかってくるのは、
先生から受けた指摘を克服して演奏に反映させる、
自分ひとりの練習です。

「やれるかどうかは、本人次第」
というのは、なんにでもあてはまるんですね。

どれだけのエネルギーをかけて
こちらが練習していくかによって、
先生から引きだせるものは、変わってくる。

もちろん、
先生の指摘に納得いかないことも当然でてくる。
自分の主張をつらぬくには、
「こう弾きたい」というのを、
迫力をもって、演奏で示さないといけない。

なかには、先生と折り合わずに、
ケンカ別れしてしまうひともいました。

わたしも、いまになって思うと、
もっと踏み込んでよかったかなぁと
思ったりしますね。

そして、練習でポイントになってくるのが、
ピアノというか、音楽の場合は、
「客観的な目」と「客観的な耳」です。

楽譜に書かれていることを、正確に読み取る「目」。
それを音に表現できているかを聴く「耳」。

あたりまえのことなんだけれど、
これがなかなか奥深いことで、
とってもむずかしーーーい、のです!!

だから、ほんとうにこだわって練習していれば、
8時間や9時間なんて、
あっというまに、過ぎちゃうんですね。

芸大の入試では、すべて自由曲で、
バッハ1曲、ショパンのエチュード2曲(一次)
古典派のソナタ1曲(全楽章)、ロマン派の作品1曲、
近現代の作品1曲(以上2次)という、
全部で6曲(約50分)をこなさないといけないから、
ますますたいへん。
(国際コンクールなんかは、
 これの比じゃないくらいもっと課題曲があります。)

試験官が10人くらいダーッと並ぶなかで、
ミスをせずに、集中力をもって弾ききるには、
テクニックの面でも音楽的な面でも、
ほんとうの意味でその作品を超えていないと、
本番で必ずブレが出てしまう。

入試にかぎらず、本番というのは、
悲しいくらい正直に、そのひとの実力をすべて、
さらけだしてしまう、コワイところです。

わたしも何回となく本番を踏んで、
うまくいくこともあったし、
どうしようもなく落ち込んだこともあったし、
いろんなことがありました。

でも、そういう経験をへて、
なにか自分というものを、すごく客観的に
捉えられるようになったと思います。

自分のなかでは「こんなハズではなかった」
といくら思っていても、
結果として出てしまった以上、
「自分の実力はたったこれだけなんだ」と、
正面から受けとめるしかないわけです。

だから、どんな場面にいても、
「自分はたいしたものじゃない」ということを
いつも心に留めるようになりました。

ピアノをやっていくということは、
なかなか平坦な道ではないけれど、
「ピアノが好き」という気持ちがあれば、
大変なことも含めて、
やりがいにつながっていくんだと思います。

ほかのひとのように、
友達と遊んだりすることはあまりできないけれど、
それに代わるようなオモシロサを、
ピアノに感じているから、できちゃう。

ここまで読んで来られたかたのなかには、
「音楽はもっと自由にやるものではないの?」
と思うひとが、いると思います。

でも、クラシックのピアノというのは、
最初から自由に自分流に弾けるものではないんです。

そういうことを含めて、
クラシックのピアノの魅力、面白さについても、
すこし書きたいと思います。

よく言われるコトバで、
「ピアノは小さなオーケストラ」
という表現があります。

メロディーも、それを支える伴奏も、
すべてをひとつの楽器で響かせてしまうのは、
ピアノだけですよね。
だからこそ、オモシロイとも言えるし、
それだけむずかしい楽器とも言えると思います。

そして、西洋音楽の作品というのは、
ほんとうにどうしてこんなものが作れたのかなぁ、
と思うくらい、綿密で、見事な完成度をもっています。

だから、自分の解釈を持ち込むまえに、
まず作曲家が思い描いていた音の響き、音楽の流れ
というものを実現する、近づくことが
なによりの前提としてあるわけです。

その作品のもつ輪郭をきちんと捉えること、
それが最低のライン。出発点。

そこを踏まえたうえで、はじめて
自分の自由な解釈が可能になるんですね。

もう亡くなったひとで、グレン・グールドという
有名なカナダのピアニストがいますが、
彼はその奇抜な風貌や性癖などといっしょに、
演奏も「行きついた」ひとと言われています。

たしかに、彼の演奏は、
これまでの伝統的な解釈とはかけ離れた、
斬新なものだったけれど、
きちんとした作品分析を踏まえていること、
過去の解釈も一通りきちんと理解していること、
そういうことが、
演奏を聴いていてちゃんと伝わってくるなぁ、
とわたしは思います。

彼に関しては、いろいろな議論があるので、
これはあくまでわたしの意見ですけどね。

ちょっと専門的になりました。

でも、彼のように、
あくまで作品から足を踏み出さずに、
それでいて個性的な演奏をすることができるのは、
クラシックのピアノの面白さ、魅力を
まさに体現しているなぁと思いますね。

ピアノという楽器は、
まず第一に、テクニックのハードルが高すぎるために、
どうしてもそこで目一杯になってしまうんですね。

わたしの芸大入試のときは、
まさにそうでした。
「ひとつもミスは許されない」と思うあまり、
気づかないうちに、
自分の音楽を見失っていたのだと思います。

専門でなくなったいま、
ほんとうにピアノをたのしんで弾けるようになって、
わたしにとっては、これでよかったんだろうな、
と思っています。

でも、
研ぎ澄まされた集中力で演奏される、
プロのひとたちの音楽には、
そこ知れない魅力がある、とも思います。

そういうなかでしか表現できない、
すごく微妙で、二度と聴けないような、
音の瞬間があるんですね。

そういうときは、しびれます、全身が。

・・・さて、ここまで二回にわたって、
わたしの「ピアノな生活」のなかで感じたことを、
振り返ってきました。

最後に、
ピアノを専門にしなくなって、
いちばん驚いたことを書きたいと思います。

「練習がないって、こんなに時間があるんだなぁ。
 これだけ時間があれば、何でもできるよね!!」


でも、「何でも、は、できないんだ」ということを、
間もなく、わたしは悟りました・・・。

音楽を演奏する側と、客観的に研究する側の、
両方の立場を経験したわたしは、
両者をつなぐような仕事をしていけたらと
思っています。

連載を読んでくださり、ありがとうございました!
こんな感じですが、なんかの参考になったでしょうか?
もしそうなら、光栄です。


(※ほぼ日スタッフ註:
  音楽の論文とかを書く学科にいる
  現役芸大生のヒガシカワさんの言葉を、
  もっと聞きたいかたは、ぜひ
  postman@1101.com
  こちらまでメールをくださいませ♪
  ご希望がおおい場合、また何かの企画で登場!
  ということがあるかもしれませんっ)

2002-04-11-THU

#1 ピアノを弾くということ(前篇)


はじめまして。
ヒガシカワアイともうします♪

いま、わたしは大学で音楽の勉強をしていて、
作曲家とその音楽作品にまつわる
さまざまなことを研究する学科に通っています。

超マイナーな分野なので、
「そんなことするよりも、楽器を演奏したり、
 好きなように音楽を聴いたりする方がいいんじゃない?」
と思うかたが、いるかもしれません。

実は、わたしもそう思うことがあります。
たくさんのコンサートで
プレイヤーを目の当たりにするたびに、
音楽の「かけがいのなさ」は、
一度かぎりの音に耳を傾けることにあるんだよなぁ、
としみじみ感じているのです。

以前は本気でプレイヤーになりたいと思って、
毎日ピアノを練習をしていた時期がありました。

東京芸大の受験に
失敗して、挫折をするまでは、
ずーっと、一度も迷うことなく、
「自分はプレイヤー(ピアニスト)になるんだっ!」
と思っていました。
(もうほんとうに、何というか、
 猪突猛進というコトバがぴったりなくらい、
 それだけを考えていたんです!)

5歳から19歳までは、
妥協できない「きつさ」を持ちながら、
ピアノに対して向かっていました。
そのことをほぼ日スタッフさんに話したことがあって、
「その経験って、おもしろいから書いてみませんか」
と提案していただいたのです。

「あ、離れてみたら、
 おもしろい体験に見えるかもしれないなー」
と、そこではじめて思いました。
それまでは近すぎて、わからなかったのです。

ピアノにかぎらず、
楽器を練習することって、
ただひとりで、楽器と向かい合って、
ほかに誰もいない、コトバさえもないなかで、
自分の思う音楽に近づくために
長い時間を費やすことですよね。

いまは楽しみとして弾くだけですけれど、
「14年ほど訓練したけれど
 いまはプロのプレイヤーではない」
という立場で、これまでピアノを弾く時間の中で
感じたこと、気づいたこと、学んだことなどを
お伝えしたいと思っています。2回の短期連載です。

さて、長きにわたる「ピアノな生活」の
はじまりのころ・・・

いまでもなつかしーい思い出として、
よく覚えているのですが、
ピアノを習うことに決めてから、一度、友達のレッスンに
ついて行ったことがあるんですね。
(わたしが習うことになる先生はちがうひとでした。)

てくてく歩いて、先生の家に着くと、
すぐに友達のレッスンが始まり、
わたしはソファにひとり座って、聴いていました。

ところが、そのときはちょうど、
きもちのいい午後の昼下がりで、
部屋に差し込むあったかい陽射しのなか、
だんだんピアノの音が遠のいていき、
なんと、くーくーと寝てしまったのです・・・。

よくあるまぬけな話なんですが、
いまになって思うと、
このほわーーんとした情景は、
わたしのピアノに対する「原風景」みたいなものかな、
と思います。

ピアノを習いはじめたときには、
「ピアノを本格的にやっていこう」なんて
思っていなかったから、
ただ好きなように、気の向くまま、
ピアノを弾いていました。

だから、たくさん時間をかけて
練習するということはなかったのですが、
ピアノはわたしに向いていたようで、
どの曲をやっても、少し練習すればすぐに暗譜できたし、
発表会に出ても、まったく上がらなかったんですね。

先生の提示する課題をひとつひとつ、
つまずくことなく、クリアしていったのです。

自然、子供心に、
「楽しいピアノ」=「自分の大切な一部」
という気持ちが出てきて、
先生からも「本格的にやってみませんか?」
と声をかけてもらったのが、
ちょうど小学3年のころでした。
週一回のレッスンも、30分から1時間になりました。

し、しかし!!
こんなしあわせで、ほのぼのとした
わたしの「ピアノな生活」は、
中学へ入って、芸大の先生に習いに行くようになって、
あとかたもなく、消えていったのです。

中学へ入って、
芸大の先生のところへ行きはじめると、
曲のレベルも高くなっていくし、
なにより先生の要求する完成度が格段に上がるので、
レッスンとそのための練習というふたつのサイクルのなかに
学校や自分の生活が組み込まれていくようになりました。

ピアノが生活のいちばんの中心。
学校へ行く以外の時間は、すべてピアノの練習。

演奏のテクニック、音楽性を高めていくためには、
よほど天才的なひとでないかぎり、
一回一回のレッスンとそれを裏付ける練習を
ずっと積み重ねていくしか、ありません。

たとえば、勉強の場合だと、
高1、高2とまったくやらなかったとしても、
高3になって、集中的にやれば、
かなり成績はアップしますよね?

でも、
ピアノとか楽器のように訓練の必要なものは、
集中的にやったからといって、急に上達することは
「ぜっっったいにありえない!」
と、思います。

もちろん、
何度練習してもうまく弾けなかったパッセージが、
ある時、何ということなく弾けるようになったり、
ずっと分からなかったテクニックの感覚が、
スッと飲み込めたり、ということはあります。
でもこれは、日々の積み重ねがあってのことです。

こんなふうに長いスパンで、
何かをクリアしていく経験を通して、
すぐにできなくてもあきらめない
粘り強さみたいなものを
体得させてもらえたような気がします。

ピアノって、つまりその、まるで、
「うさぎとカメ」のカメみたいな楽器なんだなぁと、
わたしは思います。

でも、もともとのんびりした性格のわたしは、
ピアノをやっていたことで、
拍車をかけるように、のろまになった、
という弊害もあったりしますが・・・。
(あ、でもシャキっとしたひともいるから、
 やっぱり性格によるかなぁ)

つづきは、あさって掲載の
このコーナーで、お伝えします。


(つづきます)

ヒガシカワアイさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「ヒガシカワさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2002-04-09-TUE

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