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「ほぼ日刊イトイ新聞の本」が出るよ!

【著者による談話 その3】
最初の頃のほぼ日と比べて。


『ほぼ日の本』は、darlingの
ほぼ日を作る動機が、主なテーマです。

その動機は、作って3年が経ついまの動機と、
違うものだったのか。どうなのだろうか。
今回は、以前のほぼ日といまとを比べて感じることを
「手前みそ」や「楽屋おち」にならないように
短く聞いた談話を、お届けしようと思いました。

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【著者darlingの談話 その2】


----初期のほぼ日をいま見ると、どう思いますか。

 最初のほうは、もっと、優しかったね。
 自分たちの力のない時なので、
 同好会的な気分があったと感じます。

 いまは、観客席にこたえるみたいな気分が、
 いい意味でも悪い意味でもつきました。

 つまり、映画の
 「グラディエイター」みたいなもので、
 闘技場での生き死にを賭けた戦いには、
 観客が、「殺せ」だの「死ね」だの言うんだよね。
 あれが、聞こえてくるようになった。

 昔は、それが聞こえてこなかったので、
 「まあ、休もうぜ」と言ってみたり、
 一生懸命やるにしても、
 ぜんぶが自分たちの意志で、だった。

 いまと昔との違いは、そういうところで、
 いま、「ほぼ日をやめます」と言ったら、
 ものすごいブーイングがあると思う。
 もちろん、理念としては、
 「いつ辞めても関係ないよ」と言えるんですけど、
 そうじゃないものを、すでにいまのほぼ日は、
 良くも悪くも、身につけちゃっています。

 ほぼ日は、オフィシャルだったり
 パブリックだったりする存在になっているとは、
 まだまだ、思えないんですけど、少なくとも、
 仲間がこれだけ集まってくれている広場なので。

 その広場を埋めることも簡単だし、
 つぶすことも簡単だけど、つぶさないほうの理由が、
 昔に比べてものすごく大きくなっていると感じます。

 逆に言えば、初期よりも、
 「不純」になってるんじゃないですか。
 自分がもともと持っていたものではない考えも、
 どんどん「ほぼ日」に入っていくということです。
 つまり、血判状を押した人ばかりが
 メンバーという状態では、なくなってくる。
 それは読者も、筆者も、スタッフもそうです。

 ほぼ日スタッフは、もういちど
 「動機」の血判状を押しなおさないと、
 「ほぼ日」っていう場所がつぶれますよね。
 いろんな人や考えが、広場だから
 どんどん入ってきて混血していくんだと思う。
 それは、もう、いいことなんです。
 だけど、核になって場をつくっていくスタッフは、
 趣味とか個人の利益とかを超えた
 「動機」を持ってないと、押し流されて
 ふ抜けになってしまうでしょうね。
 これは、もう、ぼく自身だってそうだと思う。

 こんなことを言える人間になるとは、
 自分でも思わなかったけど。
 いつも俺は、「ひながた」を出して、それを差し出して
 「やる気のある人は、自分でやりなさいよ」
 と言うやりかただったけど、ほぼ日では、
 「ひながたのあと」を作り続けていますから。

 最初は、
 あきれられようと思ってやっていたんです。
 「あいつは、なんで毎日やってるんだ」
 「毎日読んでるほうが、疲れるじゃないか」
 と言わせたかったんですよね。
 その勝負には、もう、勝ったと思うんです。

 だから今度は、ほんとに、
 読者と自分たちとのあいだで、
 見えないコラボレーションが
 作られていくんだろうなあ、と思うので、
 そこで、力の入れかたや抜きかたを
 どうしていくのか、が、
 ほぼ日にとって、大問題なんだと思います。
 まだ、あいかわらず、
 すごいスピードで走っちゃっているから。
 あんまり急ぐと、ダムでも決壊しますし。
 でも、急がない理由も、何もないですけど。

 あ、いまは、
 マラソンでも、そうじゃないですか。
 近代マラソンは、短距離に近い走り方で
 長距離を走るじゃないですか。
 そういうやりかたって、いままでに
 例がないので、少なくとも3年は
 こういう走り方をしてしまったんです。

 人から見たら、馬鹿みたいに見えるでしょうけど、
 この中に休みが入れられるか、とかいうことを、
 知恵を使って考えていかなければいけないな、
 という時期だと思っています。

 いま、ほぼ日をやりながら考えていることは、
 ぜんぶあとで、何かものごとをやる時に
 参考になるものだと思って、やっています。


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(明日に、つづきます)

2001-04-15-SUN

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