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「ほぼ日刊イトイ新聞の本」が出るよ!

【著者による談話 その4】
安心はないけど。

darlingの談話は、今回で最終回になります。
作り手と受け手のイメージを現在どう思うかについて。

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【著者dalringの談話 その4】

----いまのほぼ日の規模を考えて思うことは何ですか。

 いまのほうが、以前のほぼ日でやっていたよりも、
 何かのものごとを実験したあとに、
 結果からの読み取り方の速度が、
 ぼくとしては、初期の頃よりも速くなった。
 「これって何だったんだろう?」という時に、
 こういうことじゃないかなあ、と、解析して
 修正する速度が、ものすごく速くなりました。
 でもそれを、多少サイズの大きくなったスタッフや
 読者が同じように持てているのかどうかは難しいです。

 サイズが大きいイメージになると、
 それだけ、鈍くなることもあるだろうし、
 「鈍くなったがゆえに、良い」こともあるでしょうし。

 サイズについては、
 「このままでもいいんじゃないか」
 という道も、選択肢としてありますよね。
 「このサイズで、どうしたらもっとよくしていけるか」
 というのと、
 「このサイズを三倍にしてどう作っていけるか」
 というのと、両方の道があるので、
 どちらにも足をかけられるように、
 かかとをあげながら、走っていきたいですね。

 このところ、
 折に触れて思うのは「動機」ですよね。
 「動機」を考えるってところに、
 また、帰ってきてる時期じゃないかなあ。

 例えば、筋肉隆々の、
 ものすごいスピードのある男が
 いま倒れているとしたら、
 それは走りもしないし、力も出せない。

 筋肉の分量は全部あるし、質も高かったとして、
 でも、彼が走ったり重いものをもちあげた時には、
 何がその仕事をさせていたのか、
 というのを考えると、わかりやすいでしょ。

 えーと、つまり、
 「死体になるな」っていうことだと思います。

 アリでも、ものすごい重いパン屑とか
 運んだりしてるじゃない? そのほうが、
 「筋肉隆々のアンドレ・ザ・ジャイアントの死体」
 よりも、力がありますよね。
 だから、動機とか生命とか活気とかが気になる。
 ・・・あ。活気ないのが、俺、持ち味なんだけど。

----(笑)。

 ちょっと元気だと、
 「ちょっとイトイさん、違う・・・」とか、
 「ぼくの好きなイトイさんじゃない」って言われる。
 『やる気ない、活気ない』っていうのが持ち味で。

 ま、確かに、
 どうでもいいけど、と言いながら
 しれっとやる美学があるんですよね。
 だから俺が「活気」って言ってても、怪しくて、
 「みんなの言ってる活気とは違うじゃないですか」
 とか、質問されそうな活気だから・・・。

----屈折した活気?

 だって、普通の活気主義の人って、
 ヤなヤツ多いじゃない?

 俺の言ってる「活気」は、
 活気ないのが持ち味の人の言ってる活気だから、
 わけがわからないもので・・・ややこしいけど。

----ほぼ日の本を読むと、クリエイターが
  どうやっていけばいいのかをすごく意識してますが、
  いまも、それを強く考えながら仕事していますか。


 そりゃ、ありますよね。
 「ほぼ日」とおんなじような発想で、
 抜け道があるということを、
 それぞれで、気づけばいいなあと思っています。

 例えば、ほぼ日をはじめた時に、
 アッキイも青木さんも、
 (注:ほぼ日の絵や題字を作ってくれている
    アートディレクターの
    秋山具義さんと青木克憲さんのこと)
 フリーじゃなかったですよね。

 彼らはデザイナーとして
 ものすごい仕事をしているけど、
 「フリーになってからの仕事のしかた」
 というのを、模索しているじゃないですか。

 昨日、アッキイに会って話していたけど、
 「広告を作ってスタートする前の段階で、
  広告の前の段階でいろいろなことを考えたい」
 って言ってました。

 つまり、
 いままでは政治経済のジャンルで語られたり、
 経営判断と言われてきたようなことを、
 デザインしている人が視野に入れながら
 ものごとをやっていきたい、ということで・・・。
 「コンセプトそのものを考えていきたい」
 という方向になってるわけです。

 だから、あちこちで、
 いい感じには、なって来てると思います。
 俺が「ほぼ日」をやってるのは、
 そういう人たちの
 横のはげみになっていると感じるから、
 その時には、いまの「サクセスなき成功」ではなくて
 サクセスと成功が重なるようになると、
 「なんだ、できるじゃない?」って
 見せてあげられると思うんです。
 成功だけしたい人には、
 それはわからないとは思うけど。

 昨日、東大の入学式があったんだけど、
 新学長が、東大生は安定が保証されていない、
 という演説をしたらしいです。
 「諸君の就職先も何も、安心はありません」
 ・・・かつてはそういうことはありえなかった。
 それが、学長のあいさつに入ってきている。

 「いままでのものがほんとうにみんな壊れたんです」
 というのを、合格して大喜びしている学生に向かって、
 学長がしゃべる時代なので・・・
 なるほどなあ、と思ったよね。

 そういうことって、国の学校だから、
 いちばんいいにくいような気がしてたけど・・・。
 だって、
 「大企業に入ったからって安心できない」
 って、口では言うけど、みんな、そう思ってないよね。
 一部思ってる人は、潰れる前に辞めたりしてるし。
 辞めて安心できないのは、大企業にいる以上に
 安心できないわけで、どっちも安心がないのは同じ。

 その状態を、みんながわかったとしたら、
 「朝・毎・読・ほぼ」じゃないですよ。
 「『ほぼ』・朝・毎・読」になると思う。
 でも、そういう時に、
 「ほらね」って言えるだけの力を
 ぼくたちがためているかといったら、
 まだ、疑問なんですけど・・・。


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※「ほぼ日の本」を読んだあとに
 もういちどここのコーナーを見てくださると、
 また、感じるものが変わってくるように思います。

2001-04-16-MON

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