「ほぼ日刊イトイ新聞の本」が出るよ! |
【見本読み その5】 東大立花隆ゼミに会う。 今日からの見本読みは、前回の内容を受けて、 ほぼ日開始前に、タダでも一所懸命働く集まりに、 darlingが自分で会いにいった、というシリーズです。 まずは、東京大学のゼミにでかけた、ということから。 -------------------------------------- 【東大立花隆ゼミに会う】 じつは、人間が、タダでも 一所懸命働くという場面はけっこう多いものなのだ。 たとえば学校の文化祭などはいい例だろう。 文化祭の準備するのに、ギャランティは発生しない。 報酬のない仕事をするために、 学校で徹夜したいと考えている高校生だって多い。 友だちと一緒にものをつくることは、 とんでもなく楽しい。 深夜の学校はわくわくする。 友だちのいままで知らなかった意外な一面を知り、 興奮することもある。 徹夜仕事は大変だと心配するのは 大人の勝手な思いこみにすぎない。 やりたいことをやろうとする意思があれば、 逆説的な言い方だけれど、 仕事はつらいほど楽しかったりする。 ぼく自身も、そういう気持ちが強かった。 最初に就職したときもそうだった。学べる先輩がいれば、 給料なんかいらないと本気で思った。 月謝を払ってでも勤めるべきだと考えて入社した。 教えてくれるはずの先輩コピーライターは、 ぼくの入社と入れ替わりに辞めたのだけれどね。 これは大誤算だったが、そのおかげで、 ひとりで考えを組み立てる癖を身につけられた。 人はなにかをやりたいという動機があれば、 カネにこだわらない(こともある)。 絶対にない、わけじゃない、 というくらいかもしれないけれど。 夢や目的があれば、タダでもやるということはありうる。 ぼくはそのパワーが、 どこかに落っこちてないかと探すことにした。 東大教養学部の立花ゼミのことを知ったのは、 インターネットを知ったすぐあとの九七年の年末だった。 当時東大で客員教授をしていた立花隆さんが 授業で話した内容をインターネットで公開していたが、 その作業を何人もの学生が ボランティアで担っていることを知った。 ほらね、という気持ちになった。 立花さんの授業内容をテープにとって文字に起こすのは、 本当に大変な作業だと思う。 そのうえそれを、ホームページに掲載するためには HTMLというウェブ言語に編集し直さければならない。 ホームページ上での公開は、学生のためでもあるし、 立花さんのためでもある。自分の話した考えや意見が どのように伝わっていくのかを検証できるのは、 ジャーナリストの立花さんにとっても大事なことだろう。 その後に、新しい領域について出版するときなどにも、 あらかじめ考えるためのソースを 読者に提出できているという基盤があったら、 次のひろがりを期待できるし、 他の著書の宣伝の役に立つことだって考えられる。 そして、なにより、ウエブを使った授業内容の再録は、 それを読みたいと願う「まだ見ぬ読者」のためでも あるのだ。つまり、みんながうれしい。 おそらく協力した立花ゼミの学生は、 「立花隆さんの仕事に参加できる」 「同じ船の乗組員になれる」 といううれしさが根底にあったのではないか。 学生のままでは上れないステージで、 表や裏で自分の役割を見つけられる。 自分が若いうちだったら、 恥ずかしがって参加できないということも あるかもしれないけれど、 参加したくてうずうずしていたにちがいない。 「これだ。先にやっている人がる!」と思った。 ぼくは立花さんのことを、 知のカサノバみたいに思っていた。 『いっぱい知ることのヘンタイ』だと考えていた。 もちろん、これは褒め言葉ですけどね。 ぼくとは体質が違うし、 ジャンル違いの遠い人だったけれど、 立花さんの本はぼくもけっこう読んでいた。 ドキュメンタリーの手法を 職人として追及していくだけでなく、 ひとつの『ドキュメンタリー工房』のような イメージを考えようとしているのだろうか、 と想像すると興味がますますわいてきた。 ぼくがいままで気づかなかったことを、 とっくのとうに気づいているのではないかと思った。 ひょっとしたら、立花隆さんという人は、 「イニシアティブをクリエイティブが握る」 という未来を先取りしているのかもしれない。 そのために、学ぶ人々(学生)を、 実践の場に出向かせているのだろうか。 すごいなぁ、これは。 ぼくは、東京大学・立花ゼミのサイトを、 ひたすら読み続けることになった。 有名無名いろいろな人を学生がインタビューしてまとめた 「二十歳のころ」というページは、 とくにわかりやすくて興味深かった。 出版社の記者でもなかなか会えない人々が、 学生たちの取材を受けていた。 しかも立花さんがどのくらい 学生を指導したのかわからなかったが、 かなり水準の高いインタビュー記事として完成していた。 インタビュアーとして学生たちは、技術を持っていない。 であるがゆえに、取材される側が、 先回りして問わず語りに自分のことを語っている。 そういうインタビューになっていた。 これはいままでになかった方法論だ。 取材がへたなのが、逆におもしろい記事を生み出す。 この発明に立花さんや、 取材をした学生たちは気づいているのだろうか? ウエブを追いかけているのは疲れるし、 まとめて読みたかったので、「二十歳のころ」が まとめられていた小冊子をメールで注文した。 返事のメールはすぐにきた。 「たまたまメールを読んだのですが、 あのコピーライターの糸井さんですか。 小冊子はいまでもありますから、入手できるはずです。 いま、係の人はいませんが、聞いておきますから」 という内容だった。返事のメールを送ってきたのが ゼミの東大生ではなく、よその大学の学生だったことが 興味を一段と募らせた。 やがて、立花さんの秘書をしていた 佐々木千賀子さんからメールをもらった。 「すぐに送りますよ」 ということだった。 メールがなかったら、こんな速度で こんなコミュニケーションは成り立たなかっただろう。 それに、他大学の学生が、自由に講義に参加していて、 ぼくのような外からの問い合わせにも さっと返信しているというような、自由な雰囲気が ますますぼくを興奮させた。 「いちど、講義にもきてみませんか」 立花さんの秘書の佐々木さんから、 そういうメールをもらって、恐々と、 東大教養学部の教室に足を運んだのは 年が明けてすぐのことだった。 大雪が降り始めた寒い日のことだった。 立花さんの講義は、もうじき終了するという時期で、 学生の研究発表がおこなわれていた。 先生役の立花さんは、その発表を聴いていたり、 終わりに総括的な講義を加えたりしていた。 各出版社の立花担当の編集者たちが、 生徒のようにして講義に聴き入っていた。 ここにも、金にならない一所懸命があったわけだ。 ぼくが、立花ゼミで学生たちと机を並べたことが 直接のきっかけになって、「二十歳のころ」の 取材対象者としてインタビューを受けたのは、 それから一ケ月後の九八年二月頃だった。 当時、南青山にあった糸井事務所へ インタビューにきた学生に、ぼくは 立花ゼミの運営についていろいろ逆取材してしまった。 実際、ぼくの目には、そのころの立花ゼミは 理想郷のように映っていた。 学生がものを考えているところに、 もじゃもじゃ頭の評論家がひょいと混じってきて なにかを語っているのは、 実にチャーミングな景色に思えた。 学生が興味を持った人に連絡をとり、 じかに話が聞けるのも、 「二十歳のころ」というメディアがあったからだ。 これを成り立たせたおおもとは、立花隆というたった ひとりの個人の力だ。 ぼくのぼんやり考えていた夢のようなものは、 現実と隣り合わせのところにあるような気がした。 ただぼくの考えていたこととは、ちょっと違っていた。 立花ゼミはあくまでも大学のゼミだから、 ものをつくるとかクリエイティブ仕事を 目的としている組織ではない。 自分たちで新しいものを吸収しながら、 修練していくことが大事だったのだと思う。 そりゃそうだ、大学は勉強する場所なのだから。 これからぼくがやろうとしていた 自前のメディアを持つということは、 そういうことでは立ち行かない。 いちおう、勝負がかかってくるはずなのだ。 クリエイティブとしての、 なんらかの独自性が必要になってくることばかりだし、 全体として「すげぇ」と言われてはじめて メディアとして立っていけるというものだ。 勉強で終わるわけにはいかないのだ。 立花ゼミの方法論は、そのままでは使えない。 しかし、いずれにしても 立花ゼミの学生と知り合ったことは、 ぼくにとって大きかった。 雪の夜に東京大学駒場に行ったことが縁で、 何人もの立花ゼミの学生が ぼくの事務所に訪れるようになり、 佐藤智行君や木村俊介君などのちに 『ほぼ日』を支える強力メンバーとも 親しくなったのである。 ただ、笑っちゃうのは、ふたりとも、 ぼくのところに「二十歳のころ」の取材で 来てくれたメンバーではなかった。 -------------------------------------- (明日につづくよ) |
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2001-04-12-THU
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