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「ほぼ日刊イトイ新聞の本」が出るよ!

【見本読み その10】
コンテンツのネタ。

今回の見本読みから数回は、
「ほぼ日」を作ると決めたdarlingが、
どのようなラインナップの読みものを
盛り込んでいこうかと考えたところになります。

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【コンテンツのネタ】

「ほぼ日」のコンセプトの柱は、前にも書いたが、
「その人の『まかないめし』を提供してもらう」だった。

たとえば、ぼくは思想界の巨人と呼ばれ、
畏れられたり尊敬されたり攻撃されたりしている
吉本隆明さんと、二十年以上も
お付き合いをさせてもらっている。

ちょっと意外に思われることもあるのだが、
ぼくはいわゆる吉本信者でも隆明ファンでもない。
『共同幻想論』やら『擬制の終焉』
『言語にとって美とは何か』などなどの吉本本は、
持っているし読んだつもりになっているけれど、
なにが書いてあったんだとあらためて聞かれたら困る。
そのくらいの読者にしかすぎない。
「吉本さんちのおとうちゃん」のところで、
ばか話をしている「近所のあんちゃん」でしかない。

茶の間にあがり、ごはんなどいただきながら
世間話をかわすだけだが、
その中に出てくる話がじつに面白い。
「本に出てきたあの話はこういうことだったのか」
と合点することが少なくない。

ぼくは吉本さんがくれた「考えというごはん」を、
ずいぶんたくさんご馳走になって
育ってきたような気がする。
いわば吉本さんちのまかないめしをいただいてきたのだ。

著作のなかの書き言葉ではわかりにくい内容も、
これこれこういうことなんだよと、
しゃべり言葉で聞くと、おもしろいしわかりやすくなる。

吉本さんの思想的な蓄積は並大抵のものではないから、
いくらでもまかないめしは出てくる。
ぼくがつくるホームページのなかで、
それをしゃべり言葉でまるごと提供できれば、
魅力あるコンテンツになるのは間違いないと思った。

「『ほぼ日』でいままでにぼくが
 耳で聞いたような話を掲載しましょう。
 これなら、ぼくでもよくわかったくらいだし、
 みんなにもおもしろいと思うんです。
 もったいないもの、こぼれて消えちゃうのは。
 語りのほうの吉本さんで、
 第何期かの黄金時代ができますよ、わっはっは」

詐欺師のように
調子のいいことを吉本さんに言ったけれど、
吉本さんがこんなぼくのホラに
笑って承知してくれたときは、本当にうれしかった。

これこそが、「ほぼ日」の核になる
考え方の具体的なコンテントなのだから。
ここからさまざまな
「まかないめし」的な企画が生まれてきたという
起点のようなものだったのだ。

まかないめし的企画で読者の大反響を呼んだものには、
ほかにも「松本人志まじ頭」などがある。

松本人志という人は、ぼくの知っているかぎりでは、
とにかくとんでもなくおもしろい人だ。
ぼくが感じている松本人志のイメージを、
もっと他の人たちに伝えられたらいいのになぁと、
企画を考えていて思いついた。
ぼくの目に見える「笑いの殉教者」のような松本像は、
笑いというジャンルを超えて興味深い。
芸をしていない時の松本人志の魅力こそが、
「まかないめし」ではないだろうか。

しかし、芸能の世界では「まかないめし」は
商品カタログにはないわけで。
いや、商品カタログにない「めし」だからこそ、
「まかないめし」なんだ。
うまく芸能の社会の人たちに説明できる自信はなかった。

ただ、松本さんという人と、ぼくとが、
ただ単に自分の興味について知りあいとして
語り合う機会ならあってもおかしくない。
考えれば考えるほど、
頼み方が難しいとは思ったけれど、
相手側もぜひ、いちど」と言ってくれるような話を
持っていかなくては、
新しいメディアをつくっていく意味はない。
大きいメディアだから引き受けるとか、
小さい媒体だからやりたくない、
というような価値体系を超えたところで、
考えてくれる人でなければ断られるに決まっている。
ダメだと言われても、それはそれで理解できる。
ダメもとで、とにかく頼んでみるしかない。

どこだったかの楽屋で雑談しているときに、
ひょっとしたらと思って、
「こういうこと『ほぼ日』で話さない? 」
 と誘ったら、
「いいですよ」
と簡単に引き受けてくれた。

過去の価値観にとらわれていたら、
こういうことは、成り立たなかったろう。
世の中のある部分の変化が、
こんなところににじみ出てきていると思った。


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(明日に、つづきます)

2001-04-17-TUE

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