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「ほぼ日刊イトイ新聞の本」が出るよ!

【見本読み その11】
実力以下に評価されているものを拾い出す。

「おもしろくないわけがないもの」を
さがす観点についてが、今回の見本読み部分ですっ。

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【実力以下に評価されているものを拾い出す】

「世間でもっと高く評価されてもいいのに、
 なぜか実力以下に見られているものを発掘する」
なんだか、株の買い方のコツみたいだが、
もうひとつのコンセプトがこれだった。
 
資本主義の宿命なのかどうかは知らないけれど、
とにかくあらゆるものごとが、
すごい速度で消費されていく。
これは、もう、逆らっても逆らえない流れなのだろうが、
おかげで、すばらしい値打ちのあるものに
手が付けられてないなんてことも起こりうる。
 
人間にも流行中と、流行中でない、の区別がある。
 
その人がダメになったから流行が終わるのではない。
もっと新しいものでなければ、流行とは言えないから、
実力とはちがうところで世代交代が行われていくのだ。
 
「ほぼ日」のプランは、
単に流行の波に乗っていないだけで、
実はパワーのある人やコトを探そうということから
生まれてくることが多い。
流行の波に乗っているものごとは、
誰もが追いかけまわすから
「ほぼ日」のような弱小媒体が
順番を待っていても仕方がない。
それに、みんなの欲しがるものは
追いかけてとらまえたとしても
「どういう関係」を築いていいかがわからないのだ。

流行のピークにいる人々は、
「流行しているということ」
について語っていることが、ほとんどになってしまう。
それじゃ、興味もわかない。
 
邱永漢さんが「ほぼ日」に登場してくれたのも、
ぼくのコンセプトが実現したうれしいできごとだった。
 
それなりに長く生きてきて、
自分がお金のことについて
ちゃんと考えてこなかったことを後悔するようになった。
他の家でもそうだったかもしれないが、
ぼくの育った時代は、まだ
お金のことを考えることそのものが
汚いというような教育があって、
ぼくはお金について「考えない」ことを
いいことだと思いこんで生きてきた。

しかし、これでは武器の使い方を知らずに
戦争にでかけるようなものだし、
ほんとうに自分たちにとって必要なものを
手に入れるための力を、
なくてもいいと放棄していることになるのではないか。
いい年になってから、
ぼくはあらためてお金というものを、
まともに考える必要があると考えはじめた。
世の中の「拝金教」を軽べつしているだけでは、
お金というものも、人間というものも
きっと理解できやしない。

でも、おカネは幸せになるための不可欠のもの。
「お金儲けの神様」と呼ばれる邱永漢さんは、
そういうぼくの知りたいことを知っていて、
まともに教えてくれる人だと思った。
邱永漢さんは、バブル崩壊以後、
マスコミに低めに見られてきたとぼくは思っていた。
雑誌やテレビなどでも
メインに語られることが少なくなっていた。

邱さん自身の思惑も関係していたのかもしれないが、
アメリカ型のマーケティング全盛の時代に
「終わった人」のように言う
マスコミ業界人さえも見かけた。
これも、流行というものを軸にしてしか
人を見られないからだと思えた。

邱さんの生き方は、
バブルのときもいまもまったく変わらない。
「現在、おカネは紙幣になっているから四角いけれど、
 昔からマルというように、
 おカネはもともと丸いものなんです。
 しかし、地球みたいなもので、
 自分が立っているところからは裏側が見えない。
 つまり、おカネを儲けている人は
 儲けるところしか見えず、使うところが見えない。
 本当は全部ぐるりと回ってこそ一人前だから、
 ぼくはそれを完成させたい」
 
邱さんのこんな考えに、ぼくは
「それ、いいなぁ」と常々思っていた。
 
面白いのは邱さんがカネ儲けの失敗の経験も、
山ほど積んできたことだ。
かつて『週刊朝日』に自分が失敗した話を
三十回も連載したことがあるというから、
少なくとも三十の失敗をしているというわけだ。
こういうのを、ぼくはかっこいいいと思ってしまう。

上海でも東京でも、街角から街角まで歩いていくと、
その間に十個くらいの新しい仕事を考えつくというのも、
あながち冗談とは思えなかった。
邱さんは事業に成功したらすぐ飽きてしまうから、
株主になってあとは会社を他人に任せてしまう。

どういう人を社長にするのかというと、
「前から知っている人だ」という。
「えー、それって運転手さんとか? 」
と突っ込みを入れたら、
「運転手はいい。とってもいい」
と断言した。
経営のベテランをよそからスカウトしてくるより、
邱さんのやり方を近くからつぶさに見ていた人のほうが
ずっとうまくいくという。

そんな法則をいつわかったのですかと
びっくりしていたら、
「そんなに昔のことではないです」
と笑って答えていた。

邱さんは会社のカネを使い込まれたり、
持ち逃げされることも、人間だからありうることとして、
ちゃんと考えに入れている。
人間理解力が段違いの老師みたいな存在だ。

いまほどおカネの儲け方や使い方が
問われているときはない。
こんなときこそ邱さんの経験や考え方などを
参考にしたい人は多いのはずだけれど、
マスコミには流行の波とちがうらしく
登場することが少なくなっていた。
邱永漢さんのページが「ほぼ日」にあったら、
これはまたすばらしい「まかないめし」だ、
とぼくは思っていた。

邱永漢さんも、きっかけは単純だった。
食事に招待されて雑談しているときに、
「インターネットの
 ホームページをやろうと思うのですが」
と相談されて、
「メンテナンスが、大変ですよ。それよりぼくのところで
 間借りのようなスタイルで始められてはどうですか」
と正直な気持ちで言ったら、すぐに
「じゃ、そうしましょう」
と言ってくれたのだった。この判断の速さが、
「まかないめし」の作り手たちの共通した特長だ。
いま、邱永漢さんは、
またまた何度目かの「流行の人」として、
あちこちのメディアでひっぱりだこになっている。

さまざまなクリエイティブは、
発表の場や情報を伝えるメディアが限られているために
「水子」になってしまっている。
いくらいい詩が書けても、いくらいい絵ができても、
発表の場がなければ、
それはなかったのと同じことになってしまう。
『ほぼ日』が発表の場を提供すれば、
活用したいと言ってくれる人は
かなりいるのではないかと思っていたが、
その考えは外れてはいなかったようだった。
 
こういったことが、
『ほぼ日』の運営にとって重要だったのは、
「タダでも可能なことはある」と予感できたことだ。
 
「ほぼ日」には、申し訳ないけど
高額な原稿料はもちろん、
わずかな謝礼を出す資金もなかった。
まったくタダだけど、
他のメディアではできないことをやれる場を提供する。
それが、なにか考えもつかない
次のことにつながってくれたら、
いちばんいいのだけれど。
 
もともと吉本さん、邱さん、そして松本さんにしても、
あふれるような創造力を持て余している人ばかりだ。
商品としての体裁はなくても「まかないめし」としての
彼らの普段着の話がつまらないわけがないのだ。


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(明日に、つづきます)

2001-04-18-WED

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