PARCO劇場で開催中の
『ジュリアス・シーザー』を観ました。
シェイクスピアによる、
古代ローマの史実をもとにした演劇です。
「ブルータスお前もか」ということばを
ご存知の方も多いかもしれません。
これは、シーザー(カエサル、とも呼ばれることがあります)が
ブルータスにむかって言ったとされることばです。
シーザーとブルータス。
ふたりの政治闘争が話の軸にあります。
この場面も、もちろん出てきます。
多くを書いてしまうと
演劇をまっさらから観られないかもしれないので
説明はここまでにしますが、
『ジュリアス・シーザー』では
策略や裏切りが入り乱れる
男たちの争いが描かれます。
‥‥と聞くと、
暗い、難しい、怖い、重たい、
といったイメージを持たれる方も多いかもしれません。
正直なところ、わたしがそうで
これまでシェイクスピアの悲劇を
あまり好んで観てきませんでした。
それでも今回劇場まで足を運んだのは、
「女性だけで上演」というところに
興味をひかれたからです。
どんなふうに演じるんだろう。
わたしはなにを感じるんだろう。
知っているシェイクスピアの作品にも
あたらしい感想を抱くかもしれない、と思い
椅子に座りました。
休憩なしの2時間15分。観ました。
みっつ、思ったことがありました。
まず、ひとつめ。
これはなかなか意外だったことです。
今回の『ジュリアス・シーザー』は
女性の世界に置き換えて
解釈や脚色の加えられた
あたらしい『ジュリアス・シーザー』では
決してありませんでした。
正面からまっとうに表現された
古典の『ジュリアス・シーザー』でした。
シーザーもブルータスも、その部下も、
とりまく多くの市民も、
男性として登場します。
キャストは男装した姿ではなく
女優さんは女性の見た目をしています。
衣装や髪型も男性に寄せている印象もありません。
それでも、お芝居の世界というのはすごいものです。
役者さんの力に連れられて、
女性だけという違和感はなく
自然に入り込んで観ることができていました。
舞台の上で繰り広げられる
重低音ひびくようなやりとりが迫ってきます。
古典をどっぷり味わう、という
シェイクスピア作品らしい体験ができました。
そのなかで、ふと、女性であることが
いきてくる瞬間があったのです。
ひとつめと相反することを書くようですが、
これがふたつめの感想です。
女性の見た目をした登場人物が
男性らしく振る舞ったり
雄々しい言葉づかいをしている姿を観ていたら、
ふと、それがなにかのフックのように感じたのです。
舞台上の人や発言や行動が
明らかに「芝居」であり「表現」であることが
男性が演じるよりも、
目立つからかもしれません。
僅かなズレのようなものが
男たちの闘争劇に流れる強さや哀れさを
強調させているようにも感じました。
そして、声です。
深みのある男性らしい発声をしても
こちらに届いてくるのは女性の声なのです。
シェイクスピアの台詞は
一文が長くてレトリックの多いことばが並びます。
しかも今回の戯曲は福田恆存訳。
昭和30年代に訳されている時代感もあってか
堅くてややこしい台詞の応酬がつづきます。
それが、わたしの耳だけでしょうか。
いつもよりすっと頭に届いたのは
女性の声だったからかなと感じました。
これはシェイクスピアの戯曲に
なじむことができていないわたしにとって
とてもうれしい出来事でした。
最後、みっつめです。
今回の『ジュリアス・シーザー』は
舞台のうつくしさが
かなり印象深く残っています。
劇場が暗くなって
さあ、と構えているわたしの目に、
最初に入ってきた絵面に
ぐっと引き込まれたのです。
錆びた鏡に囲まれたステージの奥から、
赤の衣装をまとった一行が登場します。
全員、もちろん女性です。
人によってその赤はさまざまで
黒みがかったボルドーだったり、
えんじ色だったり、赤紫だったり。
一歩ずつ進むと、ドレスの裾がゆれ、
その姿は鏡にもゆらめいて
群衆のように見えます。
「赤」という色が連れてくる
さまざまなイメージとも重なり、
ここから物語がはじまる! という
とくべつな高揚感がありました。
わたしは舞台の幕が開いたときの
この感覚が大好きです。
このあとは、
興味をもってここまで読んでくださったみなさんの
演劇体験につづけたいと思います。
PARCO劇場での公演は
10月31日(日)まで。
そのあとも『ジュリアス・シーザー』の一行は
大阪、山形、福島、宮城、富山、愛知、
と全国をまわるそうです。