堀内誠一さんは、1932年12月20日、
今の墨田区にあたる、本所区の向島で生まれました。
父の堀内治雄さんは、ポスターや商品デザイン、
染めの型紙や立体模型などを手がける
「図案家」、つまりデザイナーでした。
堀内さんは幼いころから、治雄さんの仕事場や、
その師匠であるポスター作家、
多田北烏(ほくう)さんのアトリエ
「サン・スタジオ」で遊んでいたそうです。
アール・デコの時代が終わろうとするこの時代、
そこは堀内少年にとって別世界でした。
当時、北烏のアトリエの思い出をふりかえって、
堀内さんは著作のなかでこう記しています。
「ワンダーランドというよりエデンに近かった世界の付属物」
(『父の時代・私の時代』)
当時のデザインの世界は、ロシア・アバンギャルドや
アール・デコなどの装飾デザインが隆盛を極め、
そんな欧米の息吹が日本にも流れてきていました。
堀内さんは自然と、そんな「あたらしいデザイン」に
触れながら成長をすることになりました。
5人兄弟の長男だった堀内さん。
下町である向島の自宅には映写機があって、
壁に映しての上映会を開いたこともあったとか。
そんなモダンな家から隅田川を渡ってすぐが浅草。
そこには映画館がありました。
堀内さんはそこで「ポパイ」や「ベティ・ブープ」、
ディズニーのアニメーションなどを観ています。
そんな環境にあって、堀内さんは
「絵を描くのが得意な少年」。
少年雑誌や小説、漫画などから
いろいろな影響を受けていきます。
戦争中に母咲子さんの故郷・能登への疎開を経て、
終戦後、東京にもどった堀内さんは、
1947年、14歳のとき
新宿伊勢丹百貨店の宣伝課に装飾係員として就職します。
14歳という年齢にいまの私たちは驚きますが、
もともと呉服店だった伊勢丹では、
(「丁稚」という時代でもなかったでしょうけれど)
うんと若い人が働いているのは
そんなに不思議なことでもなかったのかもしれません。
ちなみに「なぜ14歳で?」という疑問の答えですが、
伊勢丹に入る前の堀内さんは、
青果店で働きながら夜間学校への編入をしました。
それがどういうわけか手違い
(戦後の混乱って、このこと?)で
中学2年のはずが高校2年に編入。
勉強についていけないことから
(あたりまえですよね)、
すっかり学校に通わなくなっていたそう。
それで就職を決めたのだろうということです。
やがて伊勢丹の仕事になれてくると、
堀内さんはあらためて
絵の学校にも通いはじめました。
さて、次回は伊勢丹時代のことを、
もうすこしくわしくお伝えします。
いま、この世にはいない方の中で
誰に会ってみたいか聞かれたら
まちがいなく堀内さんです。
会って、直接見てみたい!
何か話をしたいわけでもなく、
影からこっそりでいいので
堀内さんが生きている姿、話している様子
なにかを本気で作っている姿を
見てみたいと思いました。
(Tさん)
私も、堀内さんを
お慕いもうしあげている者のひとりです。
絵本、デザイン、ファッション、
本当に同じかたがなさっているのだろうか、
と思わせる多彩さと柔軟さ。
我が人生、堀内さんが産み出したもの
なくしては語れません。
記事の更新を楽しみにしています。
(Sさん)