今回の「堀内さん。」では、1947年、14歳という若さで
新宿伊勢丹百貨店宣伝部に入社してからの
堀内誠一さんの「宣伝」の仕事をふりかえります。
堀内さんがこんなふうに
ウィンドウ・ディスプレイの仕事を手がけるようになったのは
1954年以降のことだそう。
1954年といえば高度経済成長が始まった時期です。
伊勢丹で7年ほどのキャリアを積んだあと、
21歳の堀内さんは、ちょうどそんな時代に
この仕事をしていたのでした。
それ以前、十代の堀内さんの目に飛び込んできたのは、
伊勢丹の広告資料倉庫にあった
さまざまな外国の戦前からの雑誌やアートの本、
そしてファッション関係の資料でした。
きっと戦禍を免れて残っていたんですね。
そしてそこにはふんだんに取り寄せられる
最新の外国雑誌があり、デザイン集がありました。
どんな学校よりも学ぶことができ、
東京のなかでもいちばん外国に近い
場所だったのかもしれません。
エンサイクロペディアのなかに住んでいるようなもので、
営繕係の人を別とすれば、私ほどこの建物の隅から隅までを
家ネズミのようにもぐり廻って楽しんだ人間もいないでしょう。
『父の時代・私の時代』より
当時をふりかえって、エッセイのなかで
堀内さんはそう記しています。
家ねずみのように、ということは、
仕事のあいまをぬって、百貨店じゅう、
こっそり出かけていたのかもしれません。
また、街の映画館では、
次々に封切られる外国映画がありました。
伊勢丹の近くには当時「新宿文化」「大映」
「東宝」「帝都座」などの映画館があって、
伊勢丹の宣伝課に勤めていた堀内さんは
(どういうわけだかわかりませんが)
映画館にフリーパスで入れたらしく、
ほんとうにたくさんの映画を観たようです。
そんなたくさんの「外国」をインプットした堀内さん。
ウィンドウ・ディスプレイや催し物の広告などに
その影響が強いのもうなずけます。
9年間、伊勢丹宣伝部に勤めるなかで、
次々に企画される催し物のディスプレイや、
店内の装飾デザイン。
このころの仕事を堀内さんは
「立体的なエディトリアル」と言っています。
お話をすこしだけ巻き戻しましょう。
堀内さんが就職してしばらくすると、
戦後途絶えていたダイレクトメールやPR誌が復活、
宣伝部の仕事も華やかになってきます。
1951年には、伊勢丹のPR誌『BOUQUET』が発刊。
これが、堀内さんの雑誌づくりの第一歩になりました。
そして1953年の春号では、
1冊まるごとをひとりでデザインします。
そう、このとき堀内さんはまだ21歳でした。
やがて堀内さんは、『ISETAN BOUQUET』や
ダイレクトメールのブックレットをつくるいっぽうで、
社外のグラフィック、
エディトリアルの仕事もするようになります。
たとえば『BOUQUET』を見て堀内さんに声をかけたのが、
『カメラクラブ』編集長の玉田顕一郎さんでした。
そして堀内さんは伊勢丹につとめながら、
『ARS camera』、『カメラクラブ』などの
仕事もするようになります。
1955年、千代田光学(のちのミノルタ)のPR誌
『ロッコール』が創刊され、
堀内さんは誌面構成を担当。
そうして翌年、堀内さんは伊勢丹を退社、
9年間の社員デザイナー時代が終わりました。
伊勢丹を退社後、
本格的にアートディレクションをしたのが
日本織物出版の『装いの泉』という雑誌。
ここで堀内さんは雑誌編集を学びますが、
まもなく日本織物出版は倒産、
企画・デザイン制作会社「アド・センター」として
再出発をすることになります。
その創立メンバーのひとりとなった堀内さんは、
ここからさまざまな広告デザインや
雑誌デザインを手がける
多忙な日々へと進んでいきます。
「アド・センター」は、
大手の繊維メーカーである
帝人が大きなクライアントのひとつでした。
ここで堀内さんは、たくさんの広告や
ファッションショーの制作などもおこないます。
1960年ごろの日本の広告業界は好景気に沸き、
堀内さん曰く「火のついたように忙しく盛んに」
なっていきました。
アド・センターは、
広告計画の立案、セールスやPRのプランニング、
プロダクトやマーク、パッケージ、
ポスターやカレンダーのデザイン、新聞や雑誌の広告、
印刷物のデザインと編集、ファッションデザイン、
そしてテレビやラジオ広告、CMソングまで
広告に関することをひろく手がける会社に成長していきます。
そんななか、堀内さんの気持ちは、
すこしずつ広告から離れていきます。
そしてアド・センターでのもういっぽうの仕事、
『週刊平凡』や『平凡パンチ』で手がけていた、
「エディトリアル(編集)デザイン」へと向いていきます。
雑誌エディトリアルも全体が商品ですから
いろいろと条件はありますが(中略)
つまり性に合っていたのでしょう。
横すべり的にエネルギーは
そちらの方に傾いていきました。
『父の時代・私の時代』より
1969年に堀内さんはアド・センターを去り、
フリーランスとして独立します。
そして翌年創刊したのが、以前紹介した
平凡出版(現マガジンハウス)の『an・an』。
そうして、堀内さんの仕事は
エディトリアルが中心になっていくのでした。
次回は雑誌のお話にもどって、
堀内さんのてがけた「ロゴ」のことをご紹介します。
どうぞおたのしみに!
協力 堀内路子 堀内花子 堀内紅子
取材 ほぼ日刊イトイ新聞+武田景