保坂 |
ぼく自身のことで言うと、
96年の12月に、
チャーちゃんっていうネコが、
白血病で、死んじゃったんです。 |
糸井 |
それって、大事件ですよね。 |
保坂 |
もう大変でしたね。
今回の小説でも、
死んだネコのことを思って、
「死ぬことと、いなくなることとは、別なんだ」
と、語り手が考えているんだけど。
この小説は、
「いなくなることは、
消えることとは別の次元のことなんだ」
ということを、
いかに構築していくかの話でもあるんですよ。
そのことを書いていく途中で、
発見した言葉があるんですよ。
「神の子が死んだということは、
ありえないことであるがゆえに事実であり、
葬られた後に復活したというのは、
信じられないことであるがゆえに確実である」
ありえないがゆえに事実であり、
信じられないがゆえに確実であるという……。
「めちゃくちゃな論理をいうやつがいるなぁ」
と思いますよね?
この言葉を、ぼくは、
ポーの小説のなかで発見したんですけど、
哲学辞典を見たら、西暦2世紀前後にいた
テルトゥリアヌスという人の、実際の言葉で。
この矛盾した言葉の矛盾というのが、
大きな段差になっているというか、
すごい力を持っているんですよね。
矛盾自体が、推進力になるというか。
この言葉を小説の中でも書いて、
で、そこから、小説の道が、
またひとつ、グッとこう、
山道が険しくなっていくんですけど。 |
糸井 |
ふーん。 |
保坂 |
ぼくは、リアリティっていう問題を
ずっと考えてきてるんですが、
リアリティっていうのは、
「ただ、科学的に客観的にある」
っていう問題じゃないんです。
「ある」っていってる自分までが
まきこまれるダイナミックなサイクルを
持っている状態が、リアリティなんです。
このリアリティの中に入っていくと、
自分自身の土台があやうくなっていくというか、
土台が、別にものへ変わっていくという。
ステレオタイプな意味でのリアリティの他に、
言葉を持つ人間として、言葉に引きずられるのが、
もうひとつのリアリティの生成なんじゃないか、
ということを考えたんですよ。 |
糸井 |
それ、いいねぇ……。 |
保坂 |
小説って、書いている本人の中にも、
登場人物をかたちづくる
タネしかないのと同じように、
言葉を書いていくことで、
言葉によって、引きずられるわけですよ。
自分が書いたものなんだけど、
それを自分の目で読むことで、
それがまた新しい力になって、
その力に、引っぱられていくわけですよね。
だから、小説を書くことで、
「ネコや人が、物理的にいなくなることは、
もういちど戻ってくるということなんだ」
というリアリティを、作りだせるんじゃないか?
そういう風に、思ったんです。
「最も実感とは遠い、
論理で突き通したテルトゥリアヌスの言葉の力」
と、もう一方で、
「言葉を知らない、幼児期の自分自身の言葉」
という、言葉には、両極があるんだけど、
日常で使っている言葉は、
その両極がない、穏当な言葉なんですよね。
子どもにとって、まだ、
人間の「言葉」と「音」は、
ちゃんと区別できていない。
ぼくは、子どもの時、よく空耳がありまして、
母親が「気のせいだよ」って言っていたのを、
「木のせい」だと思っていたんです。
「せい」は、妖精の精じゃなくて、
「おまえのせいだ」の「せい」ですけど(笑)。
そういう、まだ完成していない、
いちばん、言葉と距離のある状態の言葉と、
それと、さっきのテルトゥリアヌスのような、
言葉として無茶に完成された言葉。
その両端を結びつけるのが、
この小説の最終的な課題だなと思って、
それに気がついて、最後の最後の章を書いていった。
もうホントに山道が
ぐんぐんぐんぐん険しくなっていく感じだった。 |
糸井 |
今の話、すごくおもしろい。 |
保坂 |
でしょう!
最終章は、
「そのふたつの言葉をくっつけることなんだ」
と、自分で気がついて、
それで、たぶんくっついたと思うんだけど、
自分でも、やっていて、
「なんてすげえことを考えてるんだ!」と思った。 |
糸井 |
今、聞いてて、迫力があったもん。 |
保坂 |
すごいですよ、最後の章。 |
糸井 |
保坂さん、うれしそうだね。 |
保坂 |
うん。
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(つづきます!)
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