YAMADA
カンバセイション・ピース。
保坂和志さんの、小説を書くという冒険。

第9回
「小説の中でしか味わえないこと」

糸井 保坂さんの小説って、何なんだろう?

ストーリーには行かないんだけど、
ストーリーがあった時よりも
見えるものがあるっていうか、
見るよりも、「味わう」ってことに近いかな?
保坂 そうですね。
糸井 「見る」って、何か、
再現性があるような気がして、
言語が介入できすぎますよね。

食べると味わうの間に、
「音楽」が、あるのかなぁ。
音楽も、ある程度、再現性があるから。
スコアもできちゃうし。
保坂 こないだも、高橋源一郎さんと話をして、
「小説の中に出てくる言葉」と
「小説を説明する言葉」っていうのは、
まったく、違うものなんだっていうことで、
意見が一致したんです。

音楽は、音で鳴っているものを
言葉で説明しようとしても伝わらないって
みんな、わかっていますよね。

「小説」と「小説を説明する言葉」って、
一見、同じ言葉に見えてしまうから、
説明したら小説が伝わると思われがちだけど、
まったく、別の言葉なんですよね。

小説の中にある言葉って、
小説の中でしか、味わうことができないし、
感じることができないんです。
糸井 小説語ってのが、あるわけね。
保坂 そうそう。
だから、こうやってしゃべるのも、
どだい、無理なことなんですけど……。
糸井 ぼくは、その小説語に
いちばん近くいけることは、
クチから出た言葉じゃないかなぁ、
と思っているんですよ。

特に、生でしゃべっている時って、
声質から強さから、ぜんぶ入っているから。
保坂 そうそう。身振り手振りも入っているから。
糸井 しゃべり言葉には、
「伝わらないかもしれない」
っていう、謙遜があるんです。

実際の会話では、
「こっちから行ったらどうかな?」とか、
「あっちから話したらどうなるだろう?」とか、
ありとあらゆることを、無原則に試しますよね。
それが、ふつうの書き言葉とは違う。
小説語にも、原則はありますか?
保坂 小説を続けながら
作りあげていくのが、
小説の言葉の原則だから、
無原則のようなものなんですよね。

その原則は、
小説を説明する人の原則とは
まったく、意味が違いますから。
糸井 そんなようなことを、ぼくは今、
保坂さんからしゃべり言葉で聞いて、
おもしろそうだと思っているわけだけど、
書いた小説と他者との出会いっていうのは、
保坂さんは、想像しているんですか?

会ったこともない、読んでくれる人が、
この場と、どう遭遇するかということは、
小説を書く時に、折りこまれているんですか?
保坂 『プレーンソング』を
書いた後にわかったんですけど、
あの小説を、みんながどうやって
おもしろがっていいか、わかんないころ、
実家の隣のおばちゃんが、
おもしろかったって言うんですよ。
おふくろの実家のおばちゃんも、やっぱり、
おもしろい小説を書いたねって言う。
それを聞いた時に、
「この人たち、ほかに本読んだことあるのかな?」
(笑)って思ったんです。けど、
こざかしい先入観なしに読めば
おもしろいってことなんですよね。

そのくらいだから、最初から
わからないボキャブラリーは使っていません。
今回は、一見、
かなりむずかしいことも書いたんだけど、
言葉としては、心を平らかにして読めば、
わからないことは、ないですよ。

野球場の言葉、
あれだけは、わからないでいいと思う。
ある程度、ノリとかテンポ感とかが必要だから、
2-2(ツーツー)とか、いちいち説明できない。

そこはもう、
却ってテクニカルタームを増やして、
とにかくすべてが、そのノリの中で
しゃべられている言葉なんだっていうふうに
わかってくれればいい、と。
野球場のシーンは、そういう感じなんですけど。
糸井 小説語を使って書いてはいるんだけど、
読者と保坂さんの関係というのは、
同じ場を形成する、生の人間どうしみたいな?
保坂 うん。
やっぱり、小説って、
読まれないと小説にならないっていうか。
「なんで小説は読まれるか?」
って言う疑問は、
けっこうあるんですよ、現代には。

その原因は、カフカなんですよね。

カフカが、
自分の原稿を焼いてくれって言ったから、
ほんとうの作家っていうのは、
書いたらもうそれで完結するんじゃないか?

と思われているところがある。

読まれるっていうのは、
副次的な行為に思われていて。

だけど、そうじゃなくて、
書いている人も、
書きつづけている行を
読みながら書いているんだから、
書くっていうのは読むことなんです。

 
(つづきます!)

2003-07-09-WED

BACK
戻る