YAMADA
カンバセイション・ピース。
保坂和志さんの、小説を書くという冒険。

第10回
「時間が、小説の売りもの」

保坂 何ていうか、
本って、開かないと何にもないわけでしょ?
本を開いて、一字ずつ追っていく中にしか、
小説というものは、ないわけでして……。

誰かがどこかで読んでいる時だけ、
その小説は、存在しているのであって。


レコードが、置いてあるだけでは
意味がないのと一緒で、
ドストエフスキーの『罪と罰』にしても、
今、この時間に世界中で誰かが読んでいるから、
まあ、三千冊ぐらい存在しているわけですよね。

小説って、そういうものだと思うんです。
だから、どう読まれるかは、かなり気をつけてる。

ただ、「こう読んでね」って、
すり寄る小説があるじゃない?
それは、しない。
それとは、ぜんぜん、別なんですけどね。
糸井 「こう読んでね」
って言うことは、言葉で話している相手に、
「こう聞いてね」
って言うようなもんですから。

……今、保坂さんに聞いた話って、
小説を実際に読む前に知ってたほうが、
圧倒的におもしろいね。

連れていかれる場所がわからないままに、
保坂さんの小説って、
読まれていたような気がするんですよ。

欠点なのか、特長なのかわからないけど、
「この人は、どこに連れていくんだろう?」
っていう不安が、保坂和志の小説を、
どうしたらいいかわからないと、みんなに
思わせているような気がするんですね。

保坂 そう思われている部分、多いと思います。

まず、いけないのが、
本の解説でも、評論家の評論でも、
読み終わった前提で書くでしょう?

全体の筋は言わないにしても、
ある程度、読み終わったという前提で、
解説に、小説の「構成」を書くんですよ。
だから、書評を読んだ後に
本を手にとる人も、どうしても、
小説の構成を、察知したくなるわけ。

ところが、書いてる本人は
構成が何もないわけだからさ。

あるイメージを立ちあげるための何か、
それはきっと、どこかの山に向かって、
ぼくは、ひたすら、のぼっているんです。
わかんないんだけど、とにかく。

気がついたら、自分でも
山をのぼりだしているし、
どこまで行ったら頂上に辿り着くのか、
その山がどういうものなのか、
ぜんぜんわからずに、ひたすらのぼっている。
ぼくが小説を書くって、そういう感じなんです。

だから、小説っていうのは、
構成でもストーリーでもなくて、
「読んでいる時間のなかにしかない」って、
わかってもらわないと、
ぼくの小説を読む読み方が、
みんなにとって、不安になっちゃうわけで。
糸井 そうだ、たしかに。
保坂 小説っていうのは、
「読みおわった人がまだ読んでない人に、
 持ち運んで再現できるようなもの」
だと思っていると、
ぼくの小説を読んでいる最中に
不安になるんだけど、小説なんて、
読みおわったら、残っていないんです。
かすかなものしか、残っていないわけで。
糸井 「小説の記憶」だけが、あるわけね……。
保坂 そうそう。
「読んだ!」っていう満足感とか。
でもほんとうは、読み終わっちゃったら、
何もないわけですよね。
「その中にいるときしかない」ものだから。
糸井 そのことは、言ってもらえば、
わからないことじゃないよね。
保坂 わからなくはないでしょう?

だから小説書いてる時の保坂和志と、
書いていない時の保坂和志は違うから、
書いている期間は、小説を書いてる人ですけど、
完成したら、小説を書いている保坂とは別人……。

最近ではもう、ほんとに割り切って、
自分でもはっきりわかったので、書きおわると、
小説家保坂のマネージャーになるんですよ。
糸井 なるほどね。
「わかってやってくださいよ」って。
保坂 そういう感じなんです。
 
(つづきます!)

2003-07-10-THU

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