YAMADA
カンバセイション・ピース。
保坂和志さんの、小説を書くという冒険。

第15回
「定型詩に引きずられるこわさ」

糸井 保坂さん、俳句はメチャクチャだけど、
散文書く時だって、思えば、ここの文字を
誰かが、ちょっと変えても自分が気づく、
みたいな文章を、書いているはずですよね?
保坂 いや、そうでもないですよ。
そこまではデリケートじゃない。
テンポ感が、
「あれ、おかしいな?」
って思うことはありますけどね。
糸井 でも、その同じ人の、
俳句と称するものは……。
アナーキーでふざけたもので。
保坂 (笑)「称する」って。
でもね、韻文に対しては、
きちんとそっぽを向いていないと、
すぐに、俳句的なものに
飲みこまれるっていう意識はありまして。

『もうひとつの季節』っていう小説の中で、
「自由律俳句」と称して
メチャメチャなものを作るヤツが
出てくるんですけど、
ちょっとでも油断すると、
もう、すぐに俳句くさくなっちゃうんです。

俳句っぽくなくて、
どれだけ違う、短い言葉を作るかは、
なかなか、苦労しましたね。
糸井 「飲みこまれるんじゃないか」
っていうのは、わかります。
飲みこまれますよね?
やっぱり、よくできてるからねぇ。
保坂 糸井さんもきっと、
コピーと標語じゃないとかいうことで、
きっと、戦いがあったと思うんです。
糸井 いや、ぼくはあまり……
たたかったことが、ないから。

ぼくは、仕事として、
機能を売る商売をしていたから、
自分のせいにできない場所がありすぎて、
そこは、ちょっと、違うんですけどね。

小説は、機能を売らないですから。
しかも、ストーリーで
ワクワクするとかいうことも、
無視しているわけだから、
そこでも、保坂さんとぼくは違いますよね。

小説は、何を売っているんだろう? 時間?
保坂 うーん。
なんかその言い方も、
小説より日常語が優先してますよね。

芸術の力っていうのは、
日常語によって説明させられるものじゃなくて、
日常を、照らすものなんですから。

その芸術や表現や作品があることで、
日常の美意識とか、言葉づかいとか、
思考様式とかが変わるものが、芸術だから。

糸井 いいねぇ、整理されてますね。
保坂 最近、整理したんです(笑)。
現代彫刻を見てたら。
糸井 定型詩に引きずられちゃうというか、
溺れちゃう危険性というのは、わかるなぁ。

定型詩的な世界には、
決まりきってはいるけど、
やっぱり釈然とさせてくれるような
「暫定的な何か」が、あるわけですよね?

ずるーいワナを張って、
定型詩の世界みたいなものを
利用してる人たちの
「人をクイクイ引きずりこむ手管」
みたいなものは、うっとりするもん。

ぼくは、いんちきもふくめて、
「あぁ、まことに豊かなものよ」
って見てるのが好きなんですけど、
保坂さんは、定型詩的なものに
引きずられることは、ないんですか?

たとえば、保坂さんの好きな
横浜ベイスターズの佐伯選手の、
いい時の打点を見るような気持ちって、
ズバリ、浪花節が入ってるじゃないですか。

佐伯って、ある意味ふがいないけど、
時々、意志の力で打ったんじゃないか、
みたいな点を入れる人ですよね。
保坂 佐伯……好きだからね。
あんまり、突き放して考えられない。
糸井 (笑)突き放して考えられないんだ!

ぼくは前から、ベイスターズファンが
佐伯をどう見ているのか、
いつも、気にしながら見てたんですよ。
保坂 いやぁ……
何しろ、小説の中でも書きましたけど、
ベイスターズの応援で、
ファンファーレが鳴るのは、
佐伯のとこだけですからね。
糸井 そんだけ、他人にも気になるひとですよね。
保坂 やっぱり、ベイスターズファンは、
ほんとは佐伯ファンだと思うんですよ。
糸井 わかる。
だから、オレでさえ、気にしてて。

で、4番を打ったこともある鈴木には、
それほど、思い入れがないんでしょ?
保坂 うん。
高く売れるうちにトレードしちゃえばいい。
糸井 それってさぁ……流行歌ですよ!
 
(つづきます!)

2003-07-15-TUE

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