イチロー |
スランプのときでも、
数字が出ていたことは、
救いでもあったんですよね。
数字がいいことで、
みなさんの目をダマすことはできた。
もしも、二割五分や二割六分の成績で
過ごしていたとしたら、
当然、みなさんの目は厳しくなるわけです。
もちろん、自分も苦しい、
感覚をつかめない。
カタチができていない。
……おそらく、そうなっていたら、
立ち直れないぐらい、
自分を追いつめてしまうと想像します。
でも、みなさんの目を
ごまかせたことによって、
なんとか表面的には、
うまくできているように
見せられていたんですよ。
でも、実際は違っていた。 |
糸井 |
イチローさんが感じていた
「感覚がつかめない」というスランプは、
メジャーに行こうという気持ちと、
重なるものなんですか? |
イチロー |
ぼくがはじめてアメリカに行きたいと
球団に話したのは、
九六年の夏ぐらいだったんですね。
オリックスが日本一になるシーズンです。
そもそも、どうしてアメリカ行きについて
話したのかというと……話すまでにも、
きっかけを見つけたいがために、
ずいぶんいろんなことを試したんです。
でも、光が見えてこなかった。
ぼくにとって、考えられることは、
もう、環境を変えることしか、
なかったんです。 |
糸井 |
人がみんな、
イチローはトップを走り抜いていると
見ていた時期に、本人は
「光が見えてこない」
と思っていたんだ……。 |
イチロー |
そうです。
もう、どん底の、まっただ中。
九六年前後、あのとき、
特にバッティングは、
カタチがものすごく変わっているんです。
足を開いたり、
もう、いろんなカタチを試していた。
あれは、
自分のカタチが見つからない
不安の証でもあったんです。
それだけカタチが変わる心情を、
人に見すかされると、
やっぱりつらいじゃないですか。
でも、そんなことは考えていられなかった。
とにかく、自分のカタチを見つけたい、
取りもどしたい。
その一心で、もう、
なりふりかまっていなかったんです。
成績は、出ていました。
でももしそこで、成績は出ているから
今の自分でいいんだという評価を
自分でしてしまっていたら、
今の自分は、ないですよね。
その後、
九六年、九七年、九八年、
九九年の四月まで、
スランプは続きました。
まるまる三年間は、スランプなんですよ。 |
|
|
(明日に、つづきます!) |