(5) 仮説と観察のくり返し
糸井
「ああ‥‥」というものがありますよね。
辞書的には、どうするんでしょうか。
飯間
「ああ‥‥」、感動詞ですね。
糸井
「ああ‥‥」に当たる部分が、
会話の中にはものすごく混じっていて、
例えば、「あなたは、うーん‥‥不細工な人ですね」
という言い方をしたら、
「けなしてはいませんよ」っていうニュアンスが、
声と間とでちょっと入りますよね。
でも、辞書的にはきっと入らないんですけど、
会話の中には入るんですよね。
飯間
「ああ」は、昔の辞書ではそっけない説明でした。
「何かに感じて出す声」だけだったんですが、
今は少し詳しくなりました。
どういうニュアンスの場合に使うか、
もっと説明したいですね。
糸井
「まあ」とか「さて」とか、ほかには冗語と言いますか、
「うまく言えないんだけど」とかを挟んだり。
文章の中にも苦労して感情を入れながら、
僕の文体が作られていったと思っているんですね。
言葉というのを、言葉だけで取り出して、
記号としてやり取りすることもできますけど、
実際に使用されるときには、書き言葉も含めて
「感情をどれだけ乗せられるか」が言葉の役割ですね。
辞書の話でも、「そこを消さないで」という思いと、
「出ちゃったんだよ」的な感情と、
アマルガムになっているんです。
飯間
アマルガム、合金ですね。
言葉は、客観的意味と、感情の合金であるというのは、
おっしゃるとおりです。
この「アマルガム」っていう言葉もおもしろくて、
普通、アマルガムというと虫歯に詰める合金なんですよ。
ところが、いつ頃からか、論壇とかの場で
性質の違うものが混ざり合ったもののことを、
「アマルガム」と言うようになったわけです。
辞書はずっと気づいていなくて、
詰め物のことしか書いていなかったんです。
でも、ある時期に私、気づきまして。
糸井
あ、「私」だったんですか。
飯間
もっと先に気づいた辞書もあったかもしれませんが、
少なくとも三省堂国語辞典の場合は、
「アマルガムって、『まぜこぜ』のことも言うよな」
と思いまして、意味を追加した記憶があります。
他の辞書では、どうでしょうかね。
せっかくですから見てみましょう。
糸井
戦わせるのがおもしろいですよね。
スタッフ
新明解、書いてありません。
飯間
あっ、書いてない。
糸井
飯間さん、喜ぶ。
スタッフ
岩波、書いてないです。
糸井
嬉しいね。
飯間
大喜びです。でも、広辞苑はさすがに‥‥。
糸井
出てるかな。
飯間
アマルガム‥‥ないじゃん!
「まぜこぜ」という意味はないですよ。
糸井
やりましたね!
一同
(拍手)
糸井
広辞苑がちょっと素敵なのは、
「ギリシア語の柔らかい物質に由来」と書かれていて、
柔らかさも何となく感じるんですよね。
可塑性というか、粘度を感じるのが、
論壇で「アマルガム」って言葉を使うときにも、
可塑性を含んで、使っていると思うんだよね。
飯間
ああ、なるほど。そこは広辞苑に負けました。
そこはもう、素直に認めます。
一同
(笑)。
糸井
おもしろいですねえ。
飯間
辞書の編纂でおもしろいのは、こんなふうに、
意味や用法が移っていくのに気づく瞬間です。
たしかに、糸井さんがおっしゃるように、
言語には自己表出(主観的な言葉)と、
指示表出(客観的な言葉)があって、
辞書では主に指示表出しか書けません。
でも、待てよと、これ以外のところで
自己表出している人がいるぞと。
「アマルガム」の使い方は、ちょっと意味をずらして、
「東洋文化と西洋文化のアマルガム」
というふうにも使えます。
もとは個人の自己表出だったものも、
これはいいなと思って、
同じように表現する人が増えれば、
それは指示表出になったと言えるわけですね。
糸井
事実として使っている人がいて、
その人たちの言葉を、辞書の中に流れ込ませていく。
飯間
ええ。だから、そこに観察が必要ですね。
観察して、「おっ、アマルガムって言ってるじゃん」
というところに嬉しさがあるんです。
糸井
嬉しいですね。
アマルガムで思い出したのが、この間、
「仕事と遊びの化合物」という話を聞いたんです。
僕はね、昔からよく「公私混同」っていう言い方を
肯定的に使おうとしていたんですね。
公と私は、そんなに簡単に分けられないので。
それを「公私混同」という言い方をしていたんだけど、
「混ざってしかあり得ない」みたいな
言い方をしてくれる人がいたので、
我が意を得たりと思って「そうそうそう!」と。
飯間
混ぜてはいけないものを混ぜるのが「混同」ですね。
でも、「まぜこぜ状態」は悪いとは限りません。
「公と私は、本来まぜこぜじゃないですか」、
というと、そこには否定的な意味が入りません。
糸井
とくに、クリエイティブについて語るときには、
「混同」でわざと抵抗させて理解させるよりは、
「化合物」のほうが素直でいいなと思って。
飯間
ああ、なるほど。
そうなると、やはり辞書には、
「この言葉は普通、否定的な意味で使われる」
ということを書いたほうがいいかもしれませんね。
糸井
おもしろくなりますね。
飯間
辞書でニュアンスの説明をするというのも、
必要性があることは確かです。
糸井
おもしろいですよ、すごく。
飯間
ただ、言葉のニュアンスは世代によって変わりますね。
昔、室井滋さんが週刊誌に書いていた文章の中に、
こんなエピソードがありました。
お嫁さんが姑さんに向かって、
「お義母さんは何でもよく気のつく
抜け目のない方ですね」と言ったそうです。
これは、「抜け目のない」という言葉を、
義母に対して使うかねっていうことなんですね。
糸井
そうですね。
飯間
「お義母さまは何でもよく気のつく素敵な方ですね」
と言うと問題ないんですが。
「抜け目のない」っていうのは、
犯罪者が証拠を残さなかったり、
金に汚いヤツが「抜け目なく稼ぐ」とか、
落ち度無く自分のやりたいようやっていることを、
「抜け目がない」と言いますね。
室井さんは、そこに違和感を持ったんだと思うんです。
読者もその文章を読んで、笑うわけですね、
「まったくこのお嫁さんは言葉を知らないな」って。
私もその語感のズレの話がおもしろくて、
大学の授業で、勘違いの例として学生に話したんですね。
「お嫁さんはお義母さんに向かって、
『抜け目のない人ですね』って言ったんです。
どうです?おもしろいでしょう?」
みんな、しーんとしてるんです。
糸井
いいなあ、その先生(笑)。
飯間
「あれ? すべったな」と思って学生に聞いてみたら、
学生たちは、「抜け目がない」という言葉を
いい意味で使うって言うんですよ。
「お前、抜け目ねえな」「もちろんだよ」と。
糸井
へえー。
飯間
私なんかの世代、おそらく糸井さんも、
「抜け目がない」という言葉は、
いいときに使うものじゃない、
相手に使ったら失礼ですよ、と思っている。
ところがいつの間にか、
「よく気がつく」「失敗をしない」ということで
プラスにも考えられるようになりました。
「お前、やることなすこと抜け目ないな」と言われて、
ほめられたと考える人が多くなったんです。
じつは今、おそらく若い世代では、
「抜け目ない」がほめ言葉になっていると思います。
糸井
はあー。それで今、思ったのは、
「キツネはスマートな動物である」。
利口だっていうことなんですけど、
キツネが出てくるということで類推できるように、
「ずる賢い」って意味があって、
「スマート」という言葉は
人をほめるときにあんまり言っちゃダメだよというのを、
習った覚えがあったんですね。
ところが最近、スマートフォンが出てきて
僕ら日本人が感じているよりも、
肯定的に、ひっくり返っているんだなと思って。
飯間
ああ、そうですか。
ウィズダム英和辞典を引いてみると、
「頭のいい」や「利口な」もあるんですが、
確かに糸井さんがおっしゃるとおり
「抜け目のない」「ずるい」がありますね。
「生意気」なんて意味もありますね。
これは三省堂国語辞典にはありません。
糸井
僕は、キツネとスマートの組み合わせが、
よくできてるなあと思います。
「頭がいい」も、「ずる賢い」も言っている。
イギリス人にとってのキツネの存在は、
害獣だったんですよね。
飯間
日本だと神の使いになりますね。
糸井
そうですね。
昔のイギリスでは、キツネ狩りをすることは、
日本でいうとドブネズミを捕るみたいなことでした。
でも、今のイギリスでキツネ狩りをする
おじいさんたちは野卑に見えるそうです。
時代で展開が変わっていくのがおもしろいですね。
「スマートフォン」っていうのは
意識的に名前を付けたんだなあって思いました。
インテリジェントフォンではなく、スマートフォン。
飯間
「スマート」っていう言葉には、
「インターネットの技術を使った」
というような新しい意味が現れていて、
スマートフォンについても同様ですね。
「スマート」という言葉を使って、
新しい技術を形容しているおもしろさがあります。
糸井
新参者への驚き、みたいなものも含まれますよね。
飯間
あるかもしれないですね。
ただ、日本語で「スマート」を使っている人は、
ほとんどそういう意識はないでしょうね。
糸井
ありませんね。
(つづきます)
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2017-01-17-TUE