ほぼ日刊イトイ新聞

C・シルヴェスター編『THE INTERVIEW』
(1993年刊)によれば、
読みものとしての「インタビュー」は
「130年ほど前」に「発明された」。
でも「ひとびとの営み」としての
インタビューなら、もっと昔の大昔から、
行われていたはずです。
弟子が師に、夫が妻に、友だち同士で。
誰かの話を聞くのって、
どうしてあんなに、おもしろいんだろう。
インタビューって、いったい何だろう。
尊敬する先達に、教えていただきます。
メディアや文章に関わる人だけじゃなく、
誰にとっても、何かのヒントが
見つかったらいいなと思います。
なぜならインタビューって、
ふだん誰もが、やっていることだから。
不定期連載、担当は「ほぼ日」奥野です。

07
虫プロのころ。

──
ちょっと意外な感じがするんですが、
塩野さんって、
東京理科大学のご出身なんですよね。
塩野
そう。理科系少年だったの。
天体望遠鏡をつくったりね。
──
大学時代の専攻は?
塩野
化け学。
──
就職では、
そちら方面に進まなかったんですか。
塩野
大学を5年で出たあと、
一度も就職してないようなもんだね。

ぼくが正しく勤めたのは、
手塚治虫さんの「虫プロ」のころの
20カ月だけかなあ。
──
え、虫プロにいらしたんですか?
塩野
そう、虫プロには
アニメをやってた虫プロダクションと、
雑誌の出版なんかをやっていた
虫プロ商事ってのがあって、
ぼくは「商事」のほうなんだけどね。

で、当時の漫画雑誌といえば、
南伸坊が編集してた青林堂の『ガロ』と、
虫プロの『COM』があって、
ぼくは『COM』の編集をやってたんです。
──
え、『COM』。はい、知ってます。
名作選を持ってます。

そうなんですか。
でも、どういった経緯で虫プロに?
塩野
えーっと、なんでだっけ?(笑)

んー、大学を出たあと、
大阪の「子ども新聞社」みたいな、
あやしい会社にいたことがあって、
和歌山と奈良の小学校に、
その会社の新聞が置かれてるわけ。
──
はい。
塩野
その新聞を継続して取ってもらうのに、
バイクを1台あてがわれて、
毎日、小学校をまわってたんだよね。

50年前くらいの話で、
たしかスズキのナントカってやつ、
80ccのオートバイでさ、
ずーっと、ひとりで旅をしながら、
学校をまわるという仕事を、
3カ月間だけやってたんだけどね。
──
ええ。
塩野
まあ、3ヶ月くらいで嫌んなって、
東京に帰ってきて、
今度は塾の先生をやってたんだけど、
あるとき虫プロが募集してて、
あ、これいいじゃんと思ったんだね。
──
で、みごと採用されて。
塩野
ぼくを採ってくれたのは
『宇宙戦艦ヤマト』のプロデューサーの
西崎義展(よしのぶ)さん。
──
へぇ‥‥。
塩野
西崎さん、ぼくを採用するときに
「君、絶対、組合はつくらないよね」
って念を押して、
「ああ、そんなものつくりませんよ。
趣味じゃないし」
って答えて採用されたんだけど‥‥
そのとき何歳‥‥24か。

24歳の3月27日に、入社しました。
──
よく憶えてらっしゃいますね。
塩野
うん、たしか3カ月間が試用期間で、
3カ月経った日に
正式な社員の辞令をもらって、
その日に、いきなり係長になったの。
──
係長。
塩野
企画会議の議長になったんです。

で、その3カ月後くらいに、
課長になったんじゃないかなあ。
──
スピード出世ですね(笑)。
塩野
ね。俺もよくわかんないけど。

最初は『COM』の編集者やってて、
その次に、
6号でなくなっちゃったんだけど、
『てづかマガジンレオ』
って雑誌の制作責任者になってね。
──
ええ。
塩野
ようするに、
西崎さんが何かを思いつくたんびに、
実現する役がぼくだったの。

で、そうこうしてるうちに、
入社20カ月のとき、
会社が潰れそうになったんですよ。
──
それは、どうしてですか。
塩野
当時は、劇画の時代だったんだよね。

白土三平さんの『カムイ伝』の時代。
だから、売れなかったんだね、
手塚さんの漫画は。どん底だったな。
──
そうなんですか。そんな時期が。
塩野
で、そんなわけで、
今にも会社が潰れそうになったんで、
急いで組合をつくったわけ。
──
あ、つくるなと言われた組合を(笑)。
塩野
そう、労働者の賃金を最優先にとか
会社と交渉したり、
借金の債権者を集めた会議を開いて
「明日のお約束だった手形を
半年後に伸ばしてください」
って債権者のみなさんと交渉したり。
──
そういうの得意だったんですか。
塩野
いやいや得意じゃないけど、
他にやりそうな人も、いなかったからね。

最終的には、その債権者会議が成立して、
組合員は全員助かったんだけど、
ぼくは組合をつくった責任を取って、
「虫プロ」辞めて、物書きになったんだ。
──
そうだったんですか。そんな過去が。

今、塩野さんの人生ドラマの一幕を、
見せていただいたような気が。
塩野
そう?(笑)
──
こういう感じ、聞き書き的なんですかね。
塩野
そうだね。

大学の話で思い出したからしゃべったけど、
自分でも、ずっと忘れてた(笑)。
──
あ、そうでしたか(笑)。
塩野
だから、インタビューしてもらえると、
こうやって思い出して、
ああ、自分の人生には、
こんなことがあったんだったけなぁと、
思い出すことができるんだね。
──
なるほど。
塩野
忘れてた思い出が、
突然、記憶の底から浮んでくるのって、
おもしろいもんだね。
──
こちらとしても、塩野さんが
まさか手塚治虫さんの会社にいたとは、
思ってもみませんでした。
塩野
理科大の化け学の話から、ねえ。
──
取材現場で、
こちらが驚いちゃうようなときって
たいがい、
おもしろい記事になるんですが‥‥。
塩野
うん。取材される側にも、
驚きがあるって場合もあるんだよね。
──
自分でしゃべって、
自分で驚いちゃう‥‥ようなことが。
塩野
いっぱい、あるんだと思う。

<つづきます>

2017-07-19-WED