2009年10月14日、愛媛県・松山市。
南国はまだまだ「初秋」といった風情。
やや遅い便で東京を発ったわれわれは、
午後6時くらいに、トークショーの会場である
「キャメリアホール」に到着しました。
開演時間を1時間後に控え、入り口にはすでにお客さまの行列が
じつは、行きの飛行機内で
偶然にも「となりどうし」の席となり、
楽屋では
早くもリラックスムードの松家さんと糸井。
伊丹プロダクション社長の玉置泰さんを交え、
すでに、かるい「伊丹トーク」に入っています。
さて、トークショーの会場をご紹介しましょう。
こちらがキャメリアホール。ひろくて、きれい!
ホームページでしらべてみると
この12月から来年の1月にかけては
斉藤和義さんのライブ、
松山大学吹奏楽部のコンサート、
愛媛のふるさとCM大賞、
立川談春さんのスペシャル独演会‥‥などが
めじろ押しの、そういった会場のよう。
松山市の文化発信地的な場所のようですね。
ステージ上から見ると、このような感じになります。
だいたい1000名くらいのお客さまを
収容できるそうですが、
今回は、抽選となるほどのご応募をいただきました。
たくさんのご応募、ありがとうございました!
ふと、ステージの上を見上げると、
大きく「糸井重里氏によるトークショー」と。
いや、まったくただしいんですけれども、
弊社の社長は
ふだんめったにこういう場所に出ないもんですから、
乗組員としては、なんか新鮮だったのでした。
さあ、そうこうしているうちに開場の時間。
あっという間に、約1000の席が一杯に。
あとは、ふたりの登場を待つのみ!
‥‥ん? あれれ。見たことのある人がいるぞ。
ちょっと写真をズームしてみましょう。
ほらほら、あの、真ん中のあたりです。
キャスケットをかぶった‥‥。
誰だか‥‥おわかりになりますか?
そうです、そうです! 和田ラヂヲ先生です!
現在休載中の『ネコが出ますよ。』でおなじみの
松山在住ギャグ漫画家、
和田ラヂヲ先生が、来てくれました〜!
ただいま、マンガは休載中の先生ですが、
このころは、まだ療養に入られる前。
先生、はやく帰ってきてくださいねー!
ともあれ、ほどなくトークショーは開演をむかえ、
ステージに、ふたりが登場しました。
松家 |
みなさん、こんばんは。
実は、ちょっと前から
そこの「舞台そで」にいたんですけれども、
「会場、すごい静かだね」って
糸井さんと、話していたんですよね(笑)。 |
糸井 |
うん(笑)。 |
松家 |
そしたら玉置(泰・伊丹プロダクション社長)さんが
「松山の人は、そういうところあるんですよ」って。
えっと‥‥そうなんでしょうか? |
会場 |
ざわざわ‥‥。 |
糸井 |
イエーーーイ! |
会場 |
‥‥どやどや。 |
‥‥というような、
しょうしょう不安な立ち上がりをみせたものの、
トークが進むにつれ、
会場のみなさんが楽しんでくださっているのが、
徐々に伝わってまいりました。
ここから先は、そのトークショーのようすを
ダイジェストでお送りしましょう。
聞き役の松家さんの、
「あ、なんて答えるか聞きたい」と思わせる問いに、
糸井が、いつもよりちょっと多めに答える。
そういうリズムで、ふたりの話は進んでいきます。
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糸井 |
はじめて「伊丹十三記念館」に立ったときには、
伊丹十三という人の
「生きて、表現してきた」という事実が
こんなふうに称えられていることに、
まずは「ああ、うれしいことだなあ」と思いました。
でもね、そのよろこびを感じると同時に
「建っちゃうんだ」って思ったんです。
どういうことかと言うと、
あれだけのことをやった人にたいして
十分な敬意を払い、
とうぜん適当になんかやってなくて、
しかも、毎日そこの面倒を見てる人がいる‥‥。
建築費用のことはもちろんなんですけど、
そういうことぜんぶふくめて、
「高かっただろうな」と思ったんですよ。
みんなが協力し合わなかったら、できない。
夢を語るだけならいくらでもできますが、
「実現させるちから」というのも
「表現」のうちのひとつじゃないですか。
だから記念館に立ったときには
宮本信子さんの顔が見えたし、
玉置さんや、
記念館を設計した建築家の中村好文さん、
それに松家さんも。
ちからを合わせたみんなの顔が見えたんで、
なんかそんなふうに、思ったんですよね。 |
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糸井 |
若い人なんかだと「映画監督の顔」しか知らない人も
多いかもしれませんが、
僕にとっては「俳優」であることが、まず前提かな。
で、その「俳優の伊丹さん」がエッセイを書いたり、
CMをつくったり、
雑誌の編集長をしてみたり‥‥というイメージです。
僕がお会いするきっかけになったのも
『モノンクル』という精神分析雑誌の編集長としての
伊丹さんだったわけですしね。
つまり「俳優」でありながら、
エッセイストとして、CM作家として、雑誌編集長として
「企画をたてる人」という感じでしょうか。
とくにエッセイは、
出版されるたび買って読む‥‥という時期がありました。
まぁ、熱心な伊丹ファンのかたからしたら
読んでないほうでしょうけど、
『小説より奇なり』『女たちよ!』
『再び女たちよ!』とか、あのあたりの時期です。 |
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糸井 |
僕は、育ちが「落語・漫才」なんですよ。
いや‥‥「育ちが」というとヘンですけれども(笑)、
テレビのない時代から生きてるわけです。
つまり、家庭内の娯楽が「ラジオ」だった時代。
そのなかで「落語」というものが、本当に好きだった。
たぶん、そこで「耳から聞こえてくる言葉」が
僕をかたちづくる原料になったんですね。
もちろん、若い時期ほど教条主義的ですから、
むつかしい「書き言葉」に憧れた時期もあるんですよ。
でも、本を読んで、何が書いてあるかわかんなくても、
それって、なかなか人に言いづらいじゃないですか。
たとえば「植木等さんのテレビドラマ」のおもしろさは
あれだけわかるのに、
むつかしい「書き言葉」の「本」を渡されると、
もう、よくわかんなくなっちゃうんです。
そんな「コンプレックス」のようなものを
持っていたときに、
伊丹さんの「話し言葉を文章にしたエッセイ」が
あらわれたんです。
もちろん、それまでにだって、似たようなものは
あったはずなんです。
つまり、座談会とか対談記事なんかの類は
いくらでもあったんでしょうけど、
伊丹さんの「話し言葉」は、まったくちがったんです。
「話し言葉」のなかにある「冗長性」といいますか、
無駄な小骨だとか、はらわただとか、
血あいだとか‥‥魚でいえば、そういう部分を
わざと「飾り」のように残しておく‥‥といいますか。
でも、それが実は、
「読みやすく整理された文章になってる」ことには、
あとから気づくんですが、
「これって、ありなんだ‥‥」って思ったときには
何ていうんでしょう‥‥興奮したんです。
興奮して、自分でも、やりたくてやりたくて
しょうがなくなったんですね。
で、20代半ばくらいのときかな、
原稿用紙4枚ていどのエッセイを頼まれるようになって、
それをやったんです。
「書き言葉」と「話し言葉」を、ごちゃまぜにした。
やってみて、何がよかったかというと
「ロジックで追い込んでいって、結論を出す」
なんてことをしなくても、
「ま、そんなこんなで」って書けば済んじゃう(笑)。
そして、自分の「思い」を間にはさめた。
これはもう、伊丹さんが
「ま、そんなこんなで」とやってくれたおかげです。
実は、伊丹さん以外にも、ぼくにとっての「先達」が
もうひとりいるんですが‥‥とにかく、助かりました。
「あっちの敷地に3坪ほどあるから
掘立小屋でも建てなよ」って言われたくらいの‥‥何だろう、
「場所」をくれたって気するんですよね、伊丹さんが。
僕というものを、生かせる場所を。 |
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糸井 |
今年(2009年)、お亡くなりになってしまったのですが、
話し言葉を、広告のコピーに、上手に使われる方でした。
伊勢丹の「こんにちは土曜日くん。」だとか
明治製菓の「おれ、ゴリラ。おれ、景品。」だとか、
コピーライターといったら
誰をおいても、この人がすべてというぐらいの人だと
思っているんです。
土屋さんも、落語の文体から勉強した人ですけど、
その人の文章を「広告文体」としては意識してました。
ですから、伊丹さんのエッセイの「話し言葉」と
土屋さんの広告コピーの「話し言葉」が、
「ああ、いいんだ。それやっちゃって」
という、僕を自由にさせてくれる場所だったんです。 |
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糸井 |
伊丹さんの
「人に会って話を聞いて、それを話し言葉で書く」
というのは「聞き書き」というスタイルですよね。
僕が、コピーライター以外で
メディアに出るようになる「きっかけ」が
小さいけれど、ふたつ、あるんです。
ひとつは、
沢田研二さんが歌った『TOKIO』という曲の
歌詞を書いたことです。
もうひとつが、そのちょっと前に書いた
矢沢永吉の『成りあがり』という本。
あの本は、矢沢永吉が本を出すにあたって
「ゴーストライターとして書いてくれ」
という頼まれかたは、しなかったんですよ。
つまり、矢沢永吉のツアーについていって、
テープを回して、
それを文字に起こして、まとめて‥‥という、
まさに「聞き書きの仕事」が
僕のいわば「デビュー作」なんですよね。
たしか「聞き書き・構成」というふうになってるのかな、
とにかく、僕の名前もちっちゃく出てるんです。
‥‥まぁ、その前に『スナック芸大全』という
ヘンな本も出していて、
厳密に言えば、こっちが本当のデビュー作なんですけど。
ただ、その本の前書きにもふざけて書いたんですが、
各地の「スナック芸」という
「民間伝承」を集めてきたものなわけですから、
いわば「聞いて書いた」民俗学の本だと、
言えなくはない‥‥(笑)。
その意味でも、僕は「聞き書き」というスタイルから
スタートしてるところがあって、
得意かどうかはわかりませんけれども、
経験値や、ノウハウは培ってきてるのかもしれません。
だから、その後、コピーの仕事をするときも、
「誰かに会いに行って、一本作る」
みたいなやりかたが、けっこう好きだったんです。 |
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糸井 |
「どうなりたい」というビジョンのない人間だったんで、
「何でも引き受ける」ことだけは
しないように、気をつけてましたけど、
「できるかぎり、やろう」とは思ってました。
現代社会って「いま、あいつだ」となったら
みんなが、ドドドドーッと
何の脈略もなく、仕事を頼んできますよね。
まあ、悪い言いかたをすれば「消費される」、
つまり「消費されている」‥‥うん、そういう気持ちも
ちょっとはあった、です。
で、「できるでしょう?」と言われちゃったら、
やっぱり、まだ子どもなので
「できないです」とは、言えないんですよ。
そうやって、背伸びをしながら仕事してる状況だと、
何か「走ってる感じ」がしてね。
顔に風が当たって、ひんやりして気持ちいいんです。
まぁ、そういう状況でしたけど‥‥
いま、いろいろ「ほぼ日」でやってる自分から見たら、
「ヒマだったな」と思いますね。
当時の自分は、週刊誌的にいえば
「時代を疾走するコピーライター」だったかもしれないけど、
もう、冗談じゃないですよね。
いまに比べたら、本当にラクだと思います。
ひとつの課題に、
一生懸命、集中していればいいんですから。 |
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糸井 |
97年11月10日にパソコンを買いに行ったんです。
僕の49歳の誕生日なんですけどね。
いま、任天堂の社長になってる岩田(聡)さんに
いろいろ協力してもらったりして。
ともかく、そのときにはもう、
いまの「ほぼ日」みたいなことをやるつもりで
買いに行ってるんですよ。
ぼくは、広告の仕事では生かせないけど、
でも「おもしろいこと」を、いつも考えてるんです。
‥‥もちろん、これは僕だけじゃなくて、
会場のみなさんもたぶん、
多かれ少なかれ「おもしろいことを」を、
考えてると思うんです。
「梨を剥く斬新な方法を考えたぞ」とか、
「実はあいつはヅラだぞ」とか‥‥。
いろんなことを、たえず考えていますよね?(笑)
そういうおもしろいことを、
当時は、年賀状に「やたら長い文章」にして
出してたんですよ。
で、その年賀状を、楽しみだと言ってくれる人が
けっこう、いたんです。
仕事として頼まれた「原稿」じゃなくて、
たまには、
自分で考えたことを好き勝手に書きたい。
でも、雑誌にそんなことを書かせてくれと言っても
なかなか、むつかしいでしょう。
だから、好きなことを好き勝手に書ける「場所」を
自分で作るしかないなって思ったのが、
漠然としてますが、パソコンを始めたきっかけです。
それが「ほぼ日」になったんですね。 |
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糸井 |
あの‥‥『考える人』という雑誌がありますが(笑)、
まずはやっぱり「考える」ということでしょう。
そして「考えたことの結果」は
「文章」の中だけに、あらわれるわけじゃない。
お菓子屋さんだったら「お菓子」の中に、
大工さんだったら「家」の中に、
歌手だったら「歌」の中に、
踊る人だったら「踊り」の中に、
「考えた結果」があらわれてきますよね。
僕は「コンテンツ」という言葉は「演し物」と訳すと
いいんじゃないかと思ってるんですが、
「ほぼ日」をはじめてからは、
何でも「コンテンツ」にできるようになったんです。
つまり、
僕が、誰かにインタビューした記事だけじゃなくて、
手帳やら、ハラマキやら、Tシャツなんかも、
その中に「考えたこと」を載せる
「コンテンツ=演し物」に、することができる。
だから僕らは「演し物」を「考える人」として
毎日の仕事をしているわけで、
それは、新しいハラマキを作ることであろうが、
手帳を改良することであろうが、
ぜんぶ「考える」ってことから生まれてきます。
だから「考え業」であること自体は
コピーを書いていたときから、変わってないんです。
でも、いまと昔で、大きく違うことがあります。
「こんなハラマキを考えたけど、誰か作らない?」
というのが、昔の僕の仕事だったんです。
でも、いまは、僕らが考えたハラマキを
「作って売ってくれる誰か」を探すんじゃなくて、
「工場」を探すわけです。
つまり、自分たちで「考えた」ハラマキを
「どうやって作るか」、
そして今度は、そのできあがったハラマキを
「どんな人に、どうやってとどけるか」。
そこまでの、まるごとぜんぶを、
ひとつの会社というチームの中で「考える」のが
「ほぼ日」の「コンテンツ」なんです。 |
‥‥とまあ、このように
松家さんの質問は「伊丹十三」にとどまらず、
「萬流コピー塾」など糸井の昔の仕事や
「ほぼ日」のことにまで及び、
あっという間の1時間半が過ぎていきました。
乗組員として聞いていましたが、
ふだんは「インタビューする」姿をよく見ているだけに、
あらためて「へぇ〜」「なるほど」と
思うようなことも聞けて、おもしろかったです。
松家さん、会場に来てくださったみなさん、
ありがとうございました!
さて、ことしの6月くらいから続けてきた
ほぼ日の「伊丹十三特集」は、
このあと、大トリとして
「宮本信子さん」のご登場を予定しています。
掲載は、2010年になってからになりますが、
どうぞ、楽しみにしていてくださいね。
最後に、会場に来てくださったかたからの
感想メールをいくつかご紹介して、
このレポートを、おしまいにしたいと思います。
(余談ですが、松山の人って、
松山のことが、ほんとうに大好きなんだなぁと
思っちゃうメールが、多かったです)
ご来場くださったみなさん、
ここまで読んでくださったみなさん、
ありがとうございました。
2009-12-25-FRI
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