伊丹十三特集 ほぼ日刊イトイ新聞

1000円の消しゴムの男。村松友視+糸井重里

第2回 いてもいい存在。
村松 とにかく、家に行ったら
ブリーフ姿の伊丹さんが迎えてくれたわけ。
伊丹さんは、映画の『北京の55日』とか
『ロード・ジム』で
ハリウッドの俳優といっしょに
ロケしたらしいけど、
その頃のハリウッドの大スターの
「内輪」でのあり方を、
もしかしたら演じてたのかもしれないね。
糸井 おそらく、ハリウッドの人は
「俺の場所だから」ということを表すために
ブリーフを、わざとやってるんですよね。
村松 歌舞伎の楽屋もそうでしょ?
糸井 うん、何の気遣いもない、というように。
村松 「役者だから」ってことなのかなぁ?
海外でも、シェイクスピアの役者なんか、
ちょっとよくわかんないけど、
楽屋でガウンとか、着てるよね。
糸井 着てる、着てる。
完全な「マイ・プレイス」を表してますよね。
村松 うん。
だけど、こっちはネクタイして
行ってるわけだから。
ねぇ?
糸井 はははは。
来客だからって、わざと
ブリーフに穿き替えるわけじゃ
ないんでしょうけど‥‥
村松 しかも、伊丹さんは
「それでさ」というような口調じゃないわけ。
糸井 どういう口調なんですか?
村松 「何を召し上がりますか」みたいな、
ていねいな言葉で話しかけて、
昼間から当然のようにビールを出します(笑)。
ビールを開けるときも、
栓抜きを手でもって開けるんじゃなくて、
壁でカチャッと。
糸井 栓抜きがついてて。
村松 そんなことがいちいち。
糸井 (笑)新鮮ですね。
村松 そんなタイプの作家もいないし、
そんな友達は、もちろんいないしさ。
不思議な、不思議な人だったな。

伊丹さんは、外国の映画に出演して、
車もロータス・エランか何かを注文して、
それが送られてくるのを待っていて、
『ヨーロッパ退屈日記』を書いて、
山口瞳さんとか矢口純さんとか、
そういう大人とつきあってて、
だけど金はあまりない、という人だった。
だから、とてもカッコいい感じがしたんだよ。
不自然ではあるし、
着てるものがいいわけでもないし、
だけどなんだかすごいの。
糸井 服装は、どんな感じだったんですか?
村松 ちょっと破れたような感じのセーターとか、
何か取ろうとすると
背中が開いちゃうような服とかね。
糸井 何だ、それは。すごいね(笑)。
村松 イギリスかどこかで買ってきたまんまを
着てるふうだったよ。

足もとは、裸足にスエードの靴を
履いてたりしてたから、
山口瞳さんが、直木賞をもらったときに
伊丹さんに靴下をプレゼントしようと思ったけど
「あいつのことだからわざとかもしれない」
と躊躇して、
ついにプレゼントできなかったという
話もあります。
糸井 石田純一さんの前に
それをしていた人が(笑)。
村松 いたんだよね。
それが、なんだかカッコいいわけですよ。

俺はとにかく、
会社にいるときとは
まったく違う時間をすごすために
伊丹さんの家に遊びに行く、という感じだった。
仕事なんて、1年半ぐらい、
伊丹さんとはやらなかったと思う。
糸井 仕事がなくても、
つきあいがあったんですね。
村松 そう。話すのがおもしろかったのかなぁ。
糸井 22〜3歳の新入社員にしてみれば、
ヨーロッパから帰ってきて
土足で家の中を歩いてる人の話は
きっとぜんぶ、おもしろいですよね。
村松 うん。あるときなんて、伊丹さんの家に
N響(NHK交響楽団)の人がいて
その人がビオラを弾いて、
伊丹さんがバイオリン弾いて、
川喜多和子さんがピアノ弾いて、
バロックなんかやっちゃうんだから。
その中で、俺だけ、
ただ酒飲んでるというね。

ボケーッといるだけなんだけど、
もう、いることが妙な快感になってた。
伊丹さんもそういう俺を
邪魔に思わなかったような
感じがあってさ。
糸井 村松さんは、
こいつは話してもわかるやつだなと
思われてたわけでしょう?
それはすごいことですね。
村松 まあね。
糸井 きっと23歳の教養では
伊丹さんに追いつかないに決まってるのに‥‥
村松 うん、決まってますね。
糸井 だけど、こいつはいてもいいと思われる。
すごいですよ。
村松 いや、そう「思わせる」ようにしてたとこも
ぼくには実は、あるんだよね。

伊丹さんといっしょによく
ビリヤードに行ったんだけど、
そのときもおんなじ感じ。
とにかく朝までやるんだよ。
一軒目が閉まる時間になると
「麻布十番に、まだやってるとこがある」
なんて言って、移動。
伊丹さんはビリヤードをやれるわけだよね。
というか、かなりやるわけ。

俺は、そこにいるんだけどさ、
一緒にやるとかいう腕じゃない。
伊丹さんも
「ブラバスも一緒にやらない?」
なんて、一切言わないの。
だから、こっちも「いてやろうじゃねえか」と、
意地みたいになっちゃってさ(笑)。

翌日会社に行かなきゃなんないのに、
朝の5時まで
やりもしないのにビリヤード場にいるこの俺!
それを意識しないで、
おもしろそうに球をついてる
伊丹さんという人の背中(笑)!
これは俺たちの、象徴的なシーンでした。

(つづきます)
 
10.『ヨーロッパ退屈日記』

伊丹十三さんのエッセイ処女作です。
「映画、服装、料理、音楽、語学、
 あらゆるテーマについて本格的で
 個性的な批評を下し、
 ヨーロッパを語る形で
 ホンモノの厳しさを教えてくれる本です。」
と、いま、手元にある文春文庫版の裏カバーに
書かれています。
旅行記だとか紀行文、というのではなく、
もっと実用に則した内容で、
日本人が国際人になるための
伊丹さんによる上質なレッスン、という感じです。
今読んでも、まったく古びていません。
文体も、文語ではなく、口語。
読んでいると頭のなかに
伊丹さんの声でナレーションが聞こえそうです。
ちなみに装画も挿し絵も
すべて伊丹さんによるものです。
 
このエッセイ集、最初は「ポケット文春」という
シリーズの一冊として1965年に出版されました。
でもじっさいに書き始められたのは、
 
三年ばかり前、「洋酒天国」の第五十六号に
「ヨーロッパ退屈日記」という小文を書いた。
それが本書の第一部
「エピック嫌い」までの十数章である。
(あとがきより)

 
ということですから、1962年頃ということになります。
1962年といえば、ベトナム戦争まっただ中、
マリリン・モンローが死に、
ビートルズやボブ・ディランが
レコードデビューした年です。
日本は「巨人・大鵬・卵焼き」の時代。
植木等が人気者で、
レコード大賞は橋幸夫と吉永小百合の
「いつでも夢を」です。
「ほぼ日」乗組員で言いますと山下哲が生まれた年です。
ちなみに日本人の海外旅行が自由化されたのは1964年。
まだまだ一般の人に海外旅行は夢のまた夢、
だったなかで、
20代の伊丹さんはとても早い時期に海外に行き、
その空気をエッセイという形で
輸入していたんだと思います。
この本の先輩を探すとなると、
たぶん犬養道子さんの『お嬢さん放浪記』(1958年)。
後輩にあたるのが、
村上春樹さんや、景山民夫さんになるのかな。
 
個人的な話になりますが、ぼく(シェフ)は
中学生のときにこの本を読んで
スパゲッティの正しい調理法と
「アル・デンテ」という言葉を知りました。
正しい食べ方もこの本で教わりました。
ちなみに、『ヨーロッパ退屈日記』は
現在、新潮文庫から復刊(文庫)されています。
(ほぼ日・シェフ)
 

『ヨーロッパ退屈日記』表紙
 
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2009-06-24-WED
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