伊丹さんは、機嫌のいい人だったんですか?

第1回 吹っ切れるまで。吹っ切れてから。

糸井 奥様の宮本信子さんを別にすれば、
伊丹さんと、近い距離で、
ずっとくっついていた人って
じつはいないんじゃないでしょうか。
玉置 いないですね、ええ。
糸井 やっぱり、そうですか。
だからかな?
みんな、伊丹さんに対して
ちょっとだけ冷たいことを言うんですよ。
それが、なんていうか、
ちょっとおもしろくて(笑)。
玉置 伊丹さんとは、みんな、
くっつけないんじゃないかな(笑)。
糸井

それは、きっと、伊丹さんが持ってる
「悲しみ」なのかもしれないですね。
まぁ、ぼくらは文学者じゃないんで、
そこまで掘り下げることは
できないと思うんですが‥‥。
先日、作家の村松友視さんにお会いしたんです。
村松さんと伊丹さんは、
大学卒業直後から、20代の多感な時期を
ふたりで過ごされたわけですから、
そうとう濃くつき合ってらっしゃったと
思うんですが、そんな村松さんでさえ、
伊丹さんとの距離感を表して
「伊丹さんって、逃げ水みたいなんだよ」
なんておっしゃってたんです。

玉置 ああ、なるほど。
糸井 それって、たぶん本心で、
なんていうか、いまだからこそ、
やっと言えるんだろうなという気がしたんです。
やっぱり、その、亡くなり方が、ああでしたから、
素直に伊丹十三という人を
触りにくい時間が長くあったと思うんです。
でも、いまなら、いい意味で薄まってて、
冷静に、褒めすぎもせず、落ち着きすぎもせず、
そのまんまのことが言えるんだろうなと。
玉置 そうですね。おっしゃったように、
伊丹さんの亡くなり方があれだったので、
無闇に触れてほしくないなと
当時は、伊丹プロダクションとしても
意識していたところがあります。
糸井 つまり、静かにしていたというか、
落ち着くように動いたというか。
玉置 ええ。
1997年の12月20日の、あの日以来、
ちょっと、カラをつくって、
そこに閉じこもるように過ごしてました。
まぁ、伊丹さん自身が、自分について
話題にすることを望んでないだろうと思って。
白州次郎さんの遺言に
「葬式無用、戒名不要」という
有名なことばがありますけれど、
生前、それについて話したときに、
伊丹さんは「ぼくもそうだよ」って
おっしゃってたんです。
だから、お葬式もしなかった。
親しい人からの申し出も断って、
湯河原のご自宅にも何人か来られたんですが、
すべてお断り申し上げたんです。
古くからのお知り合いの方からは
ずいぶん怒られたんですけれど‥‥。
糸井 それは‥‥たいへんだったでしょうね。
玉置 伊丹プロの社長として、
記者会見もやりましたが、
そのときは、ご家族を守るといいますか、
伊丹さん自身を守ることに精一杯でした。
宮本信子さんの女優活動だけは、
役者としての所属事務所も別でしたから
きちんと続けてもらおうと思ってましたけど。
糸井 なるほど。
玉置 そういった感じで、
伊丹十三のことに関しては
「こちらからは、なにもしない」という
スタンスで、ずっといたわけです。
その膠着した状態を、
いいタイミングでほぐしてくださったのが
「考える人」の編集長、松家仁之さんでした。
ある日、「考える人」で
伊丹十三の特集(2003年冬号)をしたい
ということで連絡してくださったんです。
それまでも、本に関する申し出は
いくつかあったんですけれども、
ぜんぶお断りしていたんですね。
松家さんからの申し出があったのは
死から5年近く経ったころのことで、
我々もなんとなく、忘れられても困るし、
きちんと知ってもらわなくては、
というふうに思いはじめたころだったので
タイミングがすごくよかったんです。
糸井 なるほど。
玉置 そして、ちょうど満5年の2002年の12月20日、
ホテルオークラ新館の地下2階で、
親しい方をたくさんお招きして、
「宮本信子感謝の夕べ」っていう
ディナーショーを開いたんです。
宮本さんがちょうどジャズを
はじめたころだったので、
ワンマンショーという形式にして。
そこから、ようするに、吹っ切れたんです。
糸井 ああ。儀式が終わったんですね。
玉置 はい。そこから、まったく変わりました。
松家さんは、「考える人」の特集のあと、
伊丹さんの仕事をまとめた
「伊丹十三の本」という書籍を
つくってくださいました。
そのあと、伊丹十三記念館の構想を
松家さんにお話ししたところ、
建築家の中村好文さんを紹介していただいて、
松山に建設する運びになったんです。
その後、伊丹さんの映画をまとめた
DVDのボックスも出して、という具合で。
糸井 松家さんとの出会いを機に
外へ開いていくと決めたわけですね。
玉置 そうですね。
松家さんとの出会いは大きかったです。
おかげさまでとくにイヤな思いもせず、
ここまではやってこれたという感じです。
もちろん、力不足なところも多々あって、
伊丹さんが映画をつくっていたころは
マスコミの方もたくさん来てくださったんですが、
いまはもう伊丹さんはいませんし、
組織として伊丹プロダクションという
会社はあるんですけれど、
私が社長でスタッフはゼロですから、
伊丹十三記念館の広報活動も
館長としての宮本信子に頼り切っている状況で。
もう少しなんとかしなくちゃ、
と感じているんですけれど‥‥。
糸井 そういう意味では、ぼくも、
最初の伊丹十三賞をいただいたっていう
なんとも光栄なご縁ができましたし、
なんでも、ご協力させていただければと。
玉置 ありがとうございます。
糸井 いや、ぼくらにとってもうれしいんですよ。
伊丹さんのお仕事って
「ひとりの人間の多面性」として
もう、おもしろいに決まってますから、
遠慮なく、「ほぼ日」のコンテンツとして
扱っていこうと思ってるんです。
玉置 糸井さんにご協力いただけることを
宮本さんも含めて、記念館のみんなが
とてもよろこんでるんですよ。
糸井 ああ、そうですか。
それはよかった。
玉置 伊丹十三賞の賞金でカメラを買った
という原稿も読ませていただきまして、
記念館のスタッフに教えたら
みんなすごくよろこんでました。
糸井 ああ、そうそう(笑)。
賞金を、なにか意味のあることに
使いたいなと考えて、
ライカのカメラを買ったんです。
ライカのカメラって、
ぼくには身に余るものですから、
興味はあったものの、
現実的には考えられずにいたんですけど、
「伊丹さんにいただいたお金で買った」っていうのは
買う理由としても、賞金の使い道としても
いいんじゃないかなと思って。
あと、この話を、「ほぼ日」の読者の人たちが
すごくよろこんでくれたんですよ。
玉置 ああ、それは、いいですね。
(続きます)

コラム 伊丹十三さんのモノ、ヒト、コト。

16. 『考える人』と『伊丹十三の本』。

新潮社の季刊誌『考える人』で、
特集「エッセイスト伊丹十三がのこしたもの」が
組まれたのは、2003年の冬号(1月発売)。

名エッセイスト、渋い名優、革新的なテレビマン、
人気映画監督と、いくつもの顔を見せる伊丹さんについて
“シンプルな暮らし、自分の頭で考える力。”を標榜する
雑誌『考える人』が用意した切り口は、
エッセイストとしての伊丹さんについて、でした。

伊丹さんの著作を並べて紹介、というのではなく、
TV番組やコマーシャルにも
伊丹さんのエッセイ的なセンスが光っているということを、
懐かしい番組やCMの画像とともに紹介しています。

またインタビュー集には、伊丹さんの
担当編集者だった村松友視さんや新井信さん、
テレビマンユニオンの佐藤利明さんや今野勉さんが
登場しています。

そして特筆すべきは、伊丹さんが
『ミセス』『週刊文春』といった雑誌の連載で
発表したものの、どの本にも収録されなかったエッセイが
再録されていることでしょう。

そしてこの40ページほどの特集は、
その2年後、インタビューや資料、画像、未収録エッセイ、
さらに雑誌にはなかった伊丹さんの商業デザイナーとしての
仕事などを増補した、
250ページ以上の本となって、書店に並びます。
これが、『伊丹十三の本』(「考える人」編集部編)です。

日常の愛用品や行きつけの店、子供に宛てた葉書など、
伊丹さんの素顔をかいま見るページもあります。
さらに、『考える人』の特集が発売される約1月前、
2002年12月20日。
伊丹さんが亡くなって
まる5年経った命日のこの日に行われた
プライベートな「感謝の会」で
宮本信子さんが挨拶された言葉も収載されています。

伊丹さんの魅力をまとめて知る本として、
このうえない1冊です。
(ほぼ日・りか)

参考:『考える人』メールマガジン ほか。

表紙カバーは、友人である浅井愼平さんの写真です。
『伊丹十三の本』。Amazonではこちら。

『考える人』HPはこちら。

コラムのもくじはこちら
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2009-07-06-MON