ほぼ日刊イトイ新聞

ほぼ日刊イトイ新聞 創刊20周年記念企画 糸井重里、 ほぼ日の20年を語る。 乗組員があれこれ質問しました。

おめでとうございます。ありがとうございます。
なんと‥‥ほぼ日刊イトイ新聞、創刊20周年です!
いやぁ、すごいものです。びっくりします。
1998年6月6日、ほぼ日が創刊してから20年です。
思えば、ほぼ日にも、いろんなことがありました。
お客さんも、コンテンツも、商品も、
そして、働く乗組員たちも、ずいぶん増えました。
この20年、どんなことがありましたっけ?
もともとのほぼ日って、どうでしたっけ?
節目のこのときに、せっかくだから、
振り返って語ってもらおうと思います。
糸井さん、この20年、どうでしたっけ?
乗組員の質問にこたえるかたちで、
糸井重里がこの20年を自由に語ります。
会場をおめでたい雰囲気で飾りつけましたが、
語られる内容は、けっこう真剣で、
乗組員たちもどんどん引き込まれていきました。

第8回
青朋ビル時代 #2外に出て行くほぼ日。

糸井
青朋ビルにいた時代の
ほぼ日の出来事を振り返ってみると
明らかに外に出て行くことが増えてますね。
とくに東日本大震災のあとは、
被災地はもちろん、いろんな場所で
「実際に行動している人」とたくさん会っている。

たとえば、
『活きる場所のつくりかた』というイベントでは、
あれこれ悩んだり、論じたりするんじゃなく、
とにかく自分ひとりでもいいから行動して、
結果的に多くの人に影響しているような人を呼んで、
自分のやってきたことを語ってもらいました。
糸井
ミグノンの友森玲子さん、
福島の放射線を測り続けた早野龍五さん、
小網代の森を保護している岸由二さん、
イカダで大陸から日本に渡ることを
再現しようとした関野吉晴さん、
それから、ネパールに学校をつくろうとしている
ライくんやジョシくんをはじめとした
APU(立命館アジア太平洋大学)の卒業生たち‥‥。

頭でっかちのイデオロギーじゃなくて、
「行動で何かを変えていく」という人たちと、
このころ、ずいぶん知り合いましたよね。
それはもう、完全に震災後の動きだと思います。

そして、外で出会った人との関係が、
つぎの動きにつながっていく。
たとえば、震災の後、いくつかの予定を
延期したりキャンセルしたりしたんですけど、
伸坊とブータンに行くのは
やめなかったんですよね(笑)。

▲2011年初夏、南伸坊さんとブータンへ。
ブータンでももちろん雑談三昧でした。

で、そこでブータンの首相フェローを務めていた、
御手洗瑞子さんと会って、
その御手洗さんが、その後、
気仙沼ニッティングの社長になるわけですからね。
ライくんの学校づくりは順調に進んでますし、
APUには、社員旅行で行ったりしました。

やっぱり、外に出て行ったのは、
「自分たちがどう生きていくか」というのを、
ものすごく真剣に探そうとしていたからだと思います。
東日本大震災をきっかけにして、
ほぼ日はそれを真剣に考えはじめた。

そして、この時期に、
リアル店舗であるTOBICHIができますが、
それもやはり「外に出て行く」ということの
一環なのかなという気がします。
TOBICHIは、すぐにふたつ目の店舗ができて、
京都にも正式にお店ができて、
思った以上の速度で広がりましたよね。
イサワ
TOBICHIについてうかがいたいんですけど、
以前、糸井さんはリアル店舗について、
「人件費もかかるし、ずっとお店を
開けているというのは簡単なことじゃない」
ということをおっしゃていたと思うんですが、
そのあたりからどういう変化があったんですか。
糸井
たしかに、言ってましたね、
インターネットでものを売ることに比べると、
やっぱり、効率が悪すぎる、と。
そこに関してはいまも同じ気持ちでいます。
だから、「売る効率」とは違うところですよね、
TOBICHIが目指すところは。

TOBICHIができるきっかけになったのは、
すごく簡単にいうと、会社が儲けたお金を
どういうふうにつかうべきかということを
話し合っていたときのことです。

プールしておく以外にどういう道があるかというと、
たとえば、倉庫をつくるとか、
田舎の田んぼを買うとか、
そういう話が例え話として出たんですね。
福祉施設を整えるというのでもいいし、
なにか、ただ持ってるだけじゃなくて、
仕事に役立つつかいかたをしようよ、と。

ちょっと脱線しますけど、
ぼくは妙に覚えている聖書の逸話があって、
どういう話かというと、
あるとき、主人が3人のしもべにお金を預けるんです。
ひとりはそのお金をもとに商売をしてけっこう儲ける。
もうひとりも同じように商売をして少し儲ける。
3人目は、お金を土に埋めてかくしておいた。
やがて主人と久々に会ったとき、
3人がなにをしたか、主人に報告するんですね。
そのとき、いろいろ工夫して増やそうとしたふたりは
それぞれに褒められるんですけど、
土に埋めて手をつけなかった
3人目だけが、すごく怒られるんです。

つまり、何もしないやつがいちばんよくない、と。
ぼくの好みもわりとそうなんです。
何もせずにただ持っていてもしょうがない。
でも、倉庫を新しくつくっても、
あんまりおもしろくない。
田んぼもそのうち行かなくなるような気がした。

じゃあどうしようということになって、
たとえば、会社の近所のマンションの1室で
お店をやるのはどうかな、と思ったんです。
このとき会社があった青朋ビルの裏には、
当時、古い公団のマンションがあったんです。
そういうところを1部屋借りて、ほぼ日のお店をやる。
少しずつ残った半端な数の在庫なんかを
ふぞろいでも並べて売ったら、
お客さんもうれしいんじゃないかと。

店員を何人も雇ったりしなくても、
乗組員が持ち回りで店番するようにして、
じゃあ4時になったら交代ね、みたいな感じで。
そういうところで、何人かの熱心な
お客さんたちと会えたらいいなと思って、
ぼんやりと近所の物件を探してたんです。

そしたら、いまのTOBICHIがあるところ、
もとはクリーニング屋さんだったんですけど、
そこが空くことがわかって、
もう、すぐにここだと決めました。
まぁ、商売をきちんとわかってる人だったら、
あの場所はたぶん選ばなかったでしょうね。
でもね、大通りの一等地とか、
おしゃれな人たちが集まる裏通りに店を開いても、
うまくいくというイメージがなかった。
糸井
それで、まわりに何もないあの場所で
手探りでお店をはじめてみたんですけど、
まぁ、ちゃんとコンテンツを発信する
いい場所になりましたよね。
結果的に、自分たちの得意科目を増やしたと思います。
いまTOBICHIがなかったら、
ほぼ日は違ったものになってるんじゃないでしょうか。

最近は、香港とか上海で
「ほぼ日手帳」のイベントをやってますけど、
TOBICHIの経験があったからこそ、
外国にもすんなり出て行けているような気もします。

そういった、外に出て行く動き全体が、
東日本大震災のあとのほぼ日の特長ですね。
「気仙沼のほぼ日」やTOBICHIが代表的ですけど、
福島のお米を売ったり、
ツリーハウスのプロジェクトをはじめたり。
「マジカル気仙沼ツアー」なんかもあったね。

もちろん、これまでもほぼ日は、
外とのやり取りはやってました。
でも、それは、なんていうかな、
自分たちの細胞膜を通じて、
外と必要なものをやり取りしてきたと思うんです。
ところが、青朋ビル時代以降のほぼ日は、
自分たちの細胞をあちこちに飛ばして、
あたらしい「場」を増やしているというか。
そういうことができるようになったんでしょうね。

▲オープン当初のTOBICHIは、
フリーのイベントスペースという感じで、
ほぼ日グッズを売る常設店ではなかった。

(次回、最終回です)

2018-06-13-WED